「…大佐?」 声が、聴こえた。 あの金の子どもの声が。 まだ幼く、声変わりもしていない声。 あぁ、幻覚の次は幻聴が待っていたのか。 どこまで、あの子どもに侵されればいいのか…。 「大佐」 幻聴にしては、しっかりとした声。 視界には、ぼんやりと映る金の子ども。 今、自分は目を開けているのだろうか。 それとも、閉じているのだろうか。 それすらも、よく解らない。 視界に、赤い何かが伸びてきた。 それから、頬に感じる温かい感触。 …温かい感触? これは、幻覚ではないのだろうか。 恐る恐る、頬を触れるものに手を添える。 そして、そこから伝えられる熱。 「…鋼の?」 声は、酷く弱々しく響いた。 けれど、そんなことを気にしない子どもの笑う声がする。 「こんな時間に、こんなとこで何してるんだ? フラれたのか?」 目を瞬かせ睫毛に乗った水滴を払えば、金の子どもが目の前にいた。 触れている手も雨に濡れたせいで冷たくはなっているけれど、温かい。 子どもは、現実に目の前にいる。 しかし、どうしてこんな時間に…。 「鋼の、こんな夜更けに傘も差さず、どうしたんだい」 「散歩」 「ひとりで?」 「…ひとりで」 「楽しいかい?」 「…大佐にだけは言われたくないよ。 そう言う、大佐は楽しい?」 「楽しくはないね。 けど――…」 けれど、君に会えたから嬉しい、と正直に告げれば、子どもはどんな反応を示すのだろう。 しかし、そんなことは言えるはずもなく…。 「…なんでもないよ」 「…そっか」 子どもは、それから何も言わなくなった。 ただ、目の前に立ち尽くす。 「濡れるよ」 「今更、だろ」 「風邪を引くよ」 「それも、今更、だ」 「…座るか?」 「…そうだな」 少し身をずらし、スペースを分けてやる。 雨降る夜更けに、大人と子どもが捨てられたように路地裏に座り込んでいる。 互いに、歳不相応な肩書きを持つ身なのに…。 「…なんかさー、俺たち捨て猫みたいだよな」 苦笑しながら、子どもが呟く。 「…そうだな」 拾って貰いたいと思う人は、隣で同じように捨て猫状態。 それならば、このまま捨て去られておきたい、と言ったら、子どもは笑うだろうか。 「何笑ってんだよ」 「…失礼」 笑うしかないだろ。 言えるわけもない思いを抱えているのだから。 「君は、誰か拾われたい人でもいるのかね」 誤魔化すように訊いた言葉は、酷く自分を傷つける言葉に思えた。 訊くまでもないこと。 子どもには、弟がいる。 唯一無二の、弟が。 「…愚問だった――」 言葉は、最後まで言えず、子どもの声が重なった。 「いるよ」 訊きたくないというのに、子どもはさらりと答える。 これはもう、覚悟を決めて砕け散れ、ということなのか。 「でも、…アルじゃねぇよ」 「…え?」 「アルじゃない、って言ったんだ」 では、誰だ、と問いたい気持ちと、 弟以上に思う相手がいると知り、その相手を知りたくない、という気持ちが交差する。 無様に開いた口は、言葉を発してはくれない。 ただ、子どものくせに大人びた横顔を見つめるだけ。 その横顔がこちらを見据え、ふっと柔らかく笑った。 「でも、そいつ来てくれないんだ。 絶対に、俺を選んではくれない。 解ってるのに、何で…、何でかなぁ…」 呟く言葉は弱々しく、痛ましい。 子どもは、困ったように笑う。 そんな顔で笑わないでくれ。 頼むから――… 気がつけば、言葉が零れ落ちた。 「…君に」 「…何?」 困った顔で笑いながら、子どもは訊いてくる。 「君に選んでもらっているのに、君を選ばないそいつが憎いよ」 「……っ」 子どもは瞠目し、固まった。 「…大佐…何言ってんの…」 「……同じ立場だからね」 その言葉で、誤魔化した。 核心を煙で巻いた。 「私も、君と同じってことさ。 拾って欲しい相手に見向きをされないどころか、眼中にすら入っていない。 けれど、それでも、思わずにはいられないんだよ…」 だから、気持ちに気づかず待たせる相手が憎いのだ、と誤魔化した。 「……そっか」 子どもは目を伏せた。 長い金の睫毛に乗る雫が、流れ落ちる。 顔中、とうに雨で濡れていたというのに、それはまるで泣いているように思えた。 あぁ、そうか…。 「…君は、泣きたかったのか?」 子どもは、寂しそうに困ったように笑った。 「大佐も?」 「……そうだね。 そうかもしれないね」 気づかなかったけれど、泣きたかったのかもしれない。 見上げれば、雨は、優しく降り注いでいる。 泣きたいけれど、泣けない自分たちの代わりに頬を濡らす。
04.06.07〜06.12 『Rain and two abandoned cats.』=雨と2匹の捨て猫。 ← Back 1 Next 3 →