ちらりちらりと、雪が降る。


気が付いてよかった。
間に合ってよかった。

筋肉があるのに軽すぎる身体を背負いながら、
早く、早く、と家へと急いだ。





Dead slumber.





裏口から入ろうかと思ったけれど、
養ってもらっている身とすればそんなことができるはずもなく、閉店間近な暖簾をくぐった。

平日のせいか、降り出した雪のせいか、
店の中には客はおらず、オヤジがカウンターの中で包丁を研いでいた手を止め顔を上げる。



「っらっしゃい…って、タケシか。
 素振りしてたんじゃ…ん、お前どうした?」

背中の存在に気づいて、オヤジが問う。

「コイツ、泊めていい?」

ぐったりとしたヒバリを見せる。
一瞬 オヤジは言葉をなくしたけれど、
すぐに、早く上に連れて行け、と言ってくれた。

理由を訊かないオヤジに、感謝した。
本当に、よくできた親だと思う。

それを素直に言えることはできなくて、
ん、とだけ言って奥へと足を向けた背中に声がかかる。


「寝かせたら、暖簾しまってくれ」

深くは訊かないオヤジ。
それでも何事か話はあるのだろう。

それに答える義務はある。
だから、あぁ、とだけ答えて止めていた足を動かした。






酔っ払った客を泊めることもあるから、
客室と言えないまでも、人が寝れる部屋はある。

それでもそこにヒバリを連れて行く気にはなれず、自分のベッドへと寝かしつけた。


苦しそうな息を吐くヒバリ。
迷った結果、学ランはハンガーへとかけ、胸元のボタンを少しだけくつろげた。

真っ暗なままにすべきかも迷ったけれど、カーテンを開けるだけに留まる。
窓の外は止む気配がないどころか、先ほどよりも更に降り注ぐ雪が見えて寒々しい。

溜息を吐き出しカーテンを閉めれば、机の上の時計に気づく。
時刻は、23時少し前。




あぁ、時間がない。
ヒバリが気づく前に隠さねぇと。

時計を引き出しに隠して部屋を出ようとしたところで、足を止める。


ヒバリ、腕時計してなかったか?
結構な時間を共有しているくせに、そういうことは覚えていない。

踵を返して細すぎる腕を取れば、鈍く光る銀の腕時計。



気づいてよかった。
じゃなきゃ、何もかも無駄になるところだった。

そっと外した時計を、ポケットの中に入れ込んだ。

別に意味はなかった。
ヒバリの学ランのポケットに入れればよかったのかもしれない。
でも本当に何も考えることもなく、無意識に自分のポケットの中に入れた。















「悪い、閉店時間すぎたな」

上から降りてくれば、僅かに閉店時間を回っていた。

「いいさ、少しくらい。
 それより、ヒバリちゃんは?」

包丁を研ぐ手を止めて、オヤジが訊く。

オヤジがヒバリと会ったのは、快気祝いとして無理矢理連れてきて以来。

たった一回会っただけで、オヤジはヒバリを気に入った。
ヒバリちゃん、と呼ぶほどに。

それから諦め半分とは言え、
そのふざけた呼び方を許すくらいには、ヒバリもオヤジを気に入っていた。

「寝てる」

暖簾に手を伸ばせば、雪が手に落ちてきた。
いつの間にか、牡丹雪へと変わっている。

きっと、明日は積もるのだろう。






「――で?」

暖簾を片付け、カウンター席に座って訊いた。

話があるはずだ。
じゃなきゃ、一時的とは言え、
病人を放っておいて、暖簾をしまえ、なんて言う人じゃない。

訊きたいことは何なのか。
早くヒバリの元に行きたいから、単刀直入に訊いた。

それなのにオヤジは、何も訊いてこない。
ただ包丁を研ぐ音が小さく響くだけ。

5分は待った。
それでも、オヤジは口を開かない。

それなら、意味がない。
諦めかけた時、包丁を研ぐ音が止んだ。

それから、交差する視線。
目が、見たことがないほどに真剣だった。









「恋をしろよ」

耳を、疑った。

何を言っているのか。
突然、何を言い出すのか。

「…っ何言って」

「俺が母さんを想ったように、恋をしろよ」

何処までも真剣な目と、
母さん、という言葉に思考が止まりかける。


オヤジが、母さんの話をするのを訊いたのはいつ以来だろうか。
それはもう思い出せないほどに、遠い昔のことだ。

記憶の中の母さんは、ぼんやりとしか思い出せない。
写真も意図的だとしか思えないように、一枚もない。

子供心に母さんのことを知りたくって、オヤジに訊いたことがあった。
その時のオヤジが酷く辛そうに笑ったから、やっぱりいい、と言ったことがある。
以来、訊いてはいけないと思っていた。

それなのに、今更、何故母さんのことを言うのか。





「好きなんだろ、ヒバリちゃんのこと」

ふっと、オヤジが笑った。
それでやっと、思考が動く。

うまく動いたかと言われれば、微妙だが。

「…男だぜ、ヒバリ」

「見りゃ解るよ、そんなこと」

そう言って、また笑う。


「オヤジ?」

「一生に一度、あるかないかと思うぜ。
 何もかも捨てでも守りたいと、エゴとしか言いようのない思いを抱く人間に会えるなんて。
 だから会えたら、その相手が女だとか男だとか関係ない。
 想いに正直であればいい」

穏やかに笑うオヤジを、呆然と見る。

「正直って、犯罪に走ったらどうすんだよ」

相変わらず、微妙な動きしかしてくれない思考はそんな言葉を吐き出す。

「その辺は信じてるからな。
 感情のセーブくらいできるだろ。
 子どものくせに、俺に気を使って母さんのこと訊かなかったお前だからな」

「…オヤジ」

やっぱり、気づいていたのか。
そんな想いでオヤジを見れば苦笑された。

「例え、うまくいかなくてもいいと思うぜ。
 恋愛しろって言ってるんじゃねぇ。
 まぁ、できればそれが一番幸せだろうがな。
 でもそれが無理でも、恋をしろ、って言ってるんだ。
 自分の感情を大事にすればいい」

――誤魔化すな、とその目が言っていた。





誤魔化していた気はなかった。

大事だと思う。
守りたいとも思う。

それでも、これが恋だとか愛だとかは解らない。





「…恋じゃ、ないかもしれない」

恐らく酷く情けない顔で、オヤジの目を見て言った。
オヤジも黙って、俺を見ていた。

「でも、守りたいんだ。
 大事なんだ」

その感情は、真実。
でも、まだこの感情に名前はない。

オヤジは、そうか、と小さく笑った。






「母さんってどんな人だった?」

今なら訊けるかもしれないと思って訊いた。

「キレイな人だったよ。
 キレイで儚くって、それでいて強かった。
 ヒバリちゃんと似てるよ」

ヒバリはキレイだけど儚くない、と言おうとして止めた。

よく知りもしない時だったらそう思っていたけれど、
知れば知るほど、ヒバリは儚く危うい。

それなのに、強さがある。
喧嘩が強いとかじゃなくて、芯の強さと言う意味で。



「身体が弱くてもう長くないと知ってて、それでも一緒に居たかったんだ。
 その結果が駆落ちで、そのままでも十分幸せだったのにお前ができた」

苦笑しながら、俺を見る。

「普通に生活してても、あと数年の命って言われてた。
 それなのに、お前を生むって言うんだ。
 悩むまでもなく、止めてくれ、って言ったよ。
 そうすれば、例え僅かと言え、長く生きられることが解っていたからな。
 まだ見ぬ子どもより、アイツが大事だったんだ。
 誰よりも、何よりも、大事だったんだ」

恨むか、とまたオヤジが笑うから、ただ首を横に振った。

「そしたら、アイツ殴ったんだよ。
 白く細い手のくせに、親方に殴られた時より痛かった。
 今、お前と言う存在にどれだけ救われていても、
 もしあの時に戻れたとしたら、俺は間違いなく同じことをアイツに言うよ」

悪いが本心だから謝る気はないぜ、とまた笑った。

「世間様には、間違ってる、って言われそうだがな、
 それでも俺の本心なんだ。
 嘘をお前に伝えることのほうが、俺には間違ってると思う。
 って、あぁ、何だろうな。
 うまく言えねぇけれど、お前もそこまで誰かを想える相手に出会えればいいと思う。
 結果は、どうだっていいんだ。
 ただ、本当にそれだけだよ」

さぁ、終りだ、と氷水とタオルが入ったボウルを差し出された。
それを受け取って席を立ったけれど、思考がうまく働かないままの俺はただオヤジを見ていた。





恋をしろよ、とオヤジが笑い、
再び包丁を研ぐ音が聴こえてきた。

もう何も話す気はないらしい。






相変わらず、
この感情が恋と言うモノなのかは解らない。

渦巻く思考を無理矢理にでも動かすために、氷を一つ口に入れた。
キンと冷えたそれで、思考を切り替える。


恋かどうかなんて、関係ない。
まずは、看病が先。


ボウルを抱え込んで、上へと向かうのみ。






07.07.24〜31 Back   4(Side.S) →