こんな日なんて、なければいい。
今日なんて、早く終わればいい。





Dead slumber.





付きまとうと言ったとおり、男は僕に付きまとう。
誰よりも先に学校に来て、誰よりも最後に帰る僕と同じ行動をとる。

朝は兎も角、
学校に生徒を残して帰るなんてことをできないから、必然的に帰りは一緒になる。


その間、男は勝手に話し、
僕は気が向けば返事だけをし、
気が向かなければ、一切話すことのないままあの家に帰る。


そんなことが、いつの間にか定着していた。






「ヒバリ、帰ろうぜ」

応接室のドアが開き、男が入ってくる。
僕は眠い目を擦りながら、無言で立ち上がりドアに向かった。

施錠して男を漸くまともに見て、動きが止まる。
視線が縫い付けられたかのように動かない。

男の手の内には、見慣れない紙袋が2つ。
そこから覗くのは、色とりどりに包装された大小様々な箱。

それが意味することなんて、
今日という日を考えれば、ひとつしかない。

「どうした?」

不自然に身を固めた僕に、男が問う。
それでも、僕は答えることなく紙袋を凝視する。

気づいた男が笑った。

「なんかさ、もらっちゃって。
 ヒバリも欲しい?
 てか、俺がヒバリから欲しい」

なんてなー、と気楽に笑う。








わき上がる感情は、吐き気にも似た嫌悪。


学校に不要なモノを持ってくることは、禁止されている。
それでも下らないことを楽しむ人間は多く、持ってきていることも知っている。

けれど、それを風紀委員の僕に見せるほど馬鹿な人間はいない。
だから、安心していた。

それなのに――…










「…帰って」

できることなら、今すぐにでもこの男から離れたい。

それができないのは、ここがまだ校内だから。
校門を一歩でも出ていればよかった。

どうして、今気づくんだ。

「え、ちょっ…。
 ヒバリ?気分悪いのか?」

慌てだす男が、僕に手を伸ばす。



近づく紙袋。
覗く包装された箱たち。

吐き気はせり上がり、
それから逃れるように、近づいた紙袋を払いのけた。


零れ落ちる、数個の箱。
露になる鮮やかな包装紙とリボン。


ずるずると座り込んで、両手で頭を抱えた。
乱れる呼吸を、必死で整える。

見えなくなった男の戸惑う気配だけが、無駄に感じられた。




「…ヒバリ」

落ち着いた頃に、漸く男が声をかける。

「帰って」

同じ言葉を繰り返した。
沈黙の後、男はバタバタと走り去った。

それに、本当に安堵した。


もう大丈夫だと思ったのに。
あまりにも久しぶりすぎて、異常に反応したのだろうか。

フラッシュバックなんて、情けない。





「ヒバリ」

バタバタと走り去った足音がまた近づいて来ると共に、名を呼ばれた。
ビクリと震えるそうになる肩を押さえ込み、動けぬままに待てば男が戻ってきた。

手には、いつもの鞄だけがあった。

「帰ろう」

何事もなかったかのように、
それこそいつものように笑うから、伸ばされた手に手を伸ばした。




帰り道、
男はいつものように下らないことを喋り、僕はそれを聞き流していた。

それでいいと思ったのに、僕は何を思ったのか立ち止まる。
遅れて、男も立ち止まる。






「――たかだか安物のチョコで、この家の財産がすべて手に入るなんて素敵な日よね」

僕が突然言った言葉に、
男が、えっ、と聞き返した。

「小さい頃、そう言って売女が連れ込んだ男に言ってたんだよ」

だからどうした、と自分でも思う。
いきなり、こんなことを言ってどうする、とも思う。

それでも、考える前に言葉は出てきてしまっていた。
そして、それで十分だった。

男が反応できないまま立ち尽くす横を、僕は歩いて通り過ぎる。


「売女って…」

母親か、とその目が訊いていた。
男は、以前僕が話したことを覚えていたらしい。

頷くこともせず、ただ男を見ることで肯定した。
ついでに、ともうひとつ思い出したことを言った。

「強欲はね、
 売女と結婚するくらいだから色欲も強くてね、
 その時他の女のトコにいたらしいよ」

価値のないことを言ってしまったのは、
先ほどの自分の態度を少しでも悪いと思っていたからだろうか。




下らない。
下らない。

本当に下らない。
だから、今日なんて日は嫌いなんだ。




家まであと少し。
付きまとう、と言った男も、もう満足だろう。
それから、できることなら今日限りすべてなかったことにしてほしい。


あの退院の日のことも、
付きまとう、と言った言葉もすべて。







「待ってろ」

滅多に見せない真剣な目と声で男は、目の前のコンビニに走って行こうとする。
それを考えるより先に、反射で腕を掴んで止めていた。

「…え?」

予想外な僕の行動に、男から真剣さは消えうせきょとんとした顔になった。

「校則違反」

買い食いは、校則違反。

「え、あ、そうか…。
 あぁ、じゃあ、ちょっと付き合ってくれねぇ?」

男は苦笑し、
僕の手を引いて、近くの公園へと向かった。

ベンチに僕を座らせ、待ってろ、と自販機へと走る。

もう止めなかった。
ただ、見ていた。

「落ちてた」

そう笑って、男が缶を僕に差し出す。
校則違反とはもう言わず、それを受け取った。


それから、後悔した。

手の中には、ホットチョコレートと書かれた缶。
手袋越しに、温かさが伝わる。




「…何で?」

んー、と少しだけ笑いながら、男は僕の隣に座る。

「上書き、かな?」

「…何それ?」

「今日という日の上書き。
 これが、ヒバリの今日という日の記憶になればいいと思って」

飲めよ、と柔らかく男は笑う。

「甘いのは嫌いなんだ」

もっと言うことなんて嫌と言うほどあるはずなのに、
そんな言葉しか出てきてくれなかった。


「大丈夫、それあんまり甘くねぇから」

貸して、と缶を僕から奪い、
プルトップを開けて、もう一度僕に渡す。

あまり甘くないと言ったくせに、広がる甘い香り。
こみ上げる、吐き気にも似た嫌悪感。

それでも、隣で男が笑うから口をつけた。



嫌悪感も吐き気も、変わらずある。

けれど、もういい、と思えた。
もうフラッシュバックは起きない、とも思えた。




「後は、君が飲みなよ」

一口しか飲んでないけれど、もう十分だった。
慌てる男を残して立ち上がる。

一気に男は飲んで、空いた缶を投げて屑籠に入れた。








「じゃあな」

門を挟んで、男が笑う。
いつもなら、無視して家の中に入る。

けれど、今日はそうしない。
玄関の前で、振り返る。

「ヒバリ?」

「見送ってあげるよ」

「え、何で?」

戸惑う男に、笑ってやる。

「単なる気まぐれだよ」

「え、マジで?」

何か照れるよな、と言いながらも、
男はまた、じゃあな、と笑って帰って行った。

見えなくなった背中に、安堵する。
ずるずると、玄関に背を預け座り込む。








いつもは、明かりの灯らない家。
けれど、今日は明かりが点いている。

それは、誰かがいると言うこと。
売女か強欲のどちらかと、その相手がいると言うこと。


ここ数年、
一緒にいる所を見てないことを考えれば、互いに相手がいることを黙認しているらしい。

売女は落ちぶれた名家に帰るのが嫌で、
強欲は成金と呼ばせぬために家柄とそれなりに見栄えのする女を手放せぬが故に。


何処までも下らなく、汚い。







だから、入りたくない。

十分だと思ったのに。
折角、男が言うように上書きが出来たのに。

入れば、また上書きされる。


だから、入らない。







今日という日がなくなってくれないと言うのなら、
僕自身で決着をつけるために、
絶対に今日だけは、今日という日が終わるまで中に入らない。





寒さから逃れるように膝を抱えこむ。

ゆっくりと目を閉じたら、
柔らかく笑った男の顔を思い出して、
手にあった缶の温かさまで思い出して、
そのお手軽さにか単純さにか知らないけれど、少しだけ僕は笑った。






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