3年前のあの時、行かない、と言ったのは僕だった。


あの場にいた誰よりもその世界が似合っていると解っていたけれど、
それでも僕は、行かない、と言った。





Colorless.





あの時、男がどんな顔をしたのか知らない。
顔を見ることなく、男の呼び止める声に足を止めることもなく、背を向けたから。
それから携帯も代え、家も引越し、ずっと男を避けとおしたまま。

イタリアだけじゃなく世界でもトップを争うマフィアに、
高々そんな手で縁を完全に断ち切れるとは思っていなかったけど、
それでもそれ以降、一度たりとも接触はなかった。

僕の気持ちを考慮したからだろう。
あの赤ん坊が、ではなく、恐らく男が。




目に映るのは自分の流した血と、それに汚された地面。
指一本動かせないままに、汚い路地裏に伸びている。

こんな姿を、昔の僕を知る人は誰も想像できないだろう。
それでも、こうなるに至った経緯には、
昔の僕を知る人――男に原因があるようだった。

襲ってきたのは、時代錯誤な黒尽くめの男たち。
イタリア語を喋っていた。
その中に僕の名前と、男の名前があった。
どう考えても、男がらみ。

それでも、僕は殺されなかった。
一般人だからと、温情をかけたのだろうか。
マフィアが聞いて呆れる、と僕は笑った。


霞む眼前に靴が映る。
昔見慣れていた白いスニーカーではなく、見慣れない磨き上げられた黒い革靴。

それなのに、それが誰だか解ってしまう。






「……」

空気が動く気配がしたが、何を言われたかよく解らなかった。
それでやっと、耳がやられていたことに気づく。

ぴくりとも動かない身体。
男を見たいのか、見たくないのか解らない今、ある意味それは有難かった。

それなのに、男はかがみこみ、僕に顔を晒す。
辛そうに歪めるその顔は、3年前とは違っていた。
少年らしさは、消えていた。

たかが3年。
それでも、確かに時間が流れていると知った。



ヒバリ。
男の口が動き、確かにそう言った。
声は聞こえなかったけれど、それでも確かに僕は聞こえた。

戸惑うように伸ばされた腕が、僕を抱き起こす。
その腕の温もりは、昔と何ひとつ変っていない。

変ってくれていればよかったのに。
そんなことを思いつつ、意識は完全に消えた。







「気がついた?」

目を覚ませば、見知らぬベッドに見知らぬホテルと思しき部屋。
そして、昔見慣れていた――けれど、今は見慣れない男。

耳はまだ完全とは言えないけれど、音は拾ってくれた。

「…ごめん」

まだぼんやりする頭の中、男が謝る。
何に対しての謝罪なのか。


「ヒバリのこと、極秘だったんだ」

極秘と言ったところで、
中学の2年間一緒に過ごしたことは隠しようのない事実。
それなのに、今更何を言うのか。

「そうじゃなくて、俺との関係」

僕の心中を察したのか続けられる言葉。
けれど、それも答えにはなってはいない。

関係、と言うほどの関係を持った覚えはない。

「…というよりは、俺の感情かな」

そう言って、男は苦笑する。




「何だろうな。
 俺、ヒバリのこと忘れられなかった。
 忘れるつもりもなかったけど、忘れなきゃいけないとは思った。
 ヒバリ、行かないっつったもんな。
 関わらせちゃいけないって思ったんだけど…何だろうな、うまく行かねぇや」

自分だけ解る言葉を並び立てたところで、僕には解らない。

「特定の女、作らなかったんだ。
 単に作れなかったんだけど。
 ずっとヒバリのことが頭にあって、それで何をどうしたかそれが他のマフィアにバレて…。
 俺を脅す…っていうより、殺すか。
 うん、まぁそんな材料に狙われたんだ」

「僕を巻き込まないでよ」

僕を忘れられなかった。
けれど、特定の女を作らなかった。

何それ、うるさいよ。

「…ごめん」

男は珍しく、僕から視線を外し俯いた。





「…でも、数日だけ待ってくれねぇかな」

暫く沈黙が続いた後、男が言った。

「まだ、完全に片してねぇんだ。
 ちゃんと潰して、安全だと解ったら解放するから」

俯いたままに告げられる言葉。

潰すって何?
君がやるの?
君が、人を殺すの?


「僕は、大学生だよ。
 講義を休めない」

「…急ぐから、数日だけだから」

頼むからと、悲痛な声が聞こえる。
けれど、それ以上に僕の心臓が悲鳴を上げる。

「君が、守ればいい」

はっと、男が顔をあげる。
その目は、驚きに見開かれている。

それは、当然だろう。
守れ、なんて言う僕を、男は知らない。




「守れって…ヒバリ?」

「何を驚いているのさ。
 君、僕をここまで運んだんだろ?
 昔とは違う。
 もうトンファーなんて、仕込んでないし使ってないんだよ。
 ただの喧嘩ならまだ勝てるけど、違うなら僕は今日みたいにやられるよ」

「…俺のせいか?」

そう問う声は、何故か辛そうに聞こえた。
自惚れないでよ、と答えながらも、
実際そうだと知ったら男はどうするのだろう。


もう仕込みトンファーなど、持ち歩いていない。
あの時から、僕はすべてを放棄した。

群れることに嫌悪していた僕は、消えた。
すべてが、どうでもよくなった。

それ故か、僕は色を失った。
白と黒、それからよく見慣れた赤しか僕には識別できない。
それは、彼と会った今でも変らない。

もう二度と、僕の目は鮮明にモノを映すことはないのだろうか。







「ヒバリの大学ってここ?」

隣で、男はバカ面をした。
世界から見ればどうってことのない大学でも、
日本ではトップと言っていい国立大に男は驚く。

「知ってたんじゃないの?
 それくらいの情報網は持ってるんでしょ?」

男を気にすることなく、僕は歩き進める。

「小僧とかは知ってんだろうけど、俺は聞いてない。
 聞いたら、我慢できなくなると思ってよ」

苦笑する男を、僕は無視した。
そんな姿を晒さないで欲しい。



「なぁ、何勉強してんだよ?」

「法律」

「…そっか」

微妙な間が空いた。

「いつか、君が捕まったら弁護してあげるよ」

何の意味もなく言った言葉だった。
それなのに、男は思いも寄らぬ、けれど当然と言えば当然の言葉を返した。

「あー、俺の場合捕まるっつーか、それ以前に死ぬっつーか…」

その言葉に、足が止まる。
振り仰いだ顔は、見慣れた苦笑。

「何?ヒバリ心配してくれちゃってるの?」

嬉しそうに笑わないでよ。
ワケもなく、泣きたくなるじゃないか。



「なぁなぁ、さっきから皆振り返ってんだけど、やっぱヒバリが美人だからかな?」

クソ、俺も大学生やりてぇ、と男が呟く。
皆、僕を見てるんじゃない。
見ているのは、隣に立つ男だ。

18だと言うのに、
いつも命を危険に晒しているせいか、貫禄がある。

昨日みたいにスーツを着ておらず、
カジュアルな格好なのに、それでも人を惹き付ける。

「君を見ているんだよ」

呟いた言葉は幸いにも届かず、何?、と男は聞き返してきた。
何でもないよ、と言って、僕はまた歩き出した。






06.05.05 Back   Next →