「…状況は?」 少し空いたままのドアから、低く抑えた男の声が聞こえる。 それからいくつかの指示を出し、電話を切った男が戻ってくる。 Colorless. 「ヒバリ、髪拭けって。 また風邪引いて入院するぞ」 笑って僕の肩にかけてあったタオルで、ガシガシと髪を拭かれる。 入院って、そんな昔のことよく覚えているね。 ぼんやりとそんなこともあったと考えていたら、ふいに髪を拭く手が止まった。 「殴らねぇのな」 呆然としたような、諦めたような、哀しいような、そんな声。 「なぁ、どうしちまったんだ?」 そんなこと、僕が知りたい。 ぎゅっと抱きしめられても、僕は殴らなかったし拒絶もしなかった。 「ヒバリ」 覗き込む目が、辛そうに揺れる。 僕は、その目から視線を離さない。 僕は、弱くなった。 男はそれを知らない。 触れるだけのキスをされた。 それでも、僕は目を逸らさなかった。 「明日、片がつく。 明後日には、帰るから」 言うだけ言って、男は離れた。 どこか突き放すような言葉と態度で。 夕暮れの帰り道、一番星がもう瞬いていた。 明日になれば、また男は姿を消す。 僕は教えてもいないけれど、また携帯を代え家を引っ越す。 そして男は僕の心情を悟って、また連絡を絶つ。 無機質な音を立て、男の携帯が鳴った。 一言二言、男は言葉を交わしそれを切った。 「ケリ、ついたみてぇだ」 そう言って笑う表情は喜びよりも苦笑が強く、僕はどうしようもなくなる。 「なぁ、ご褒美くれねぇ?」 首を傾けても、可愛くないよ。 それなのに、僕はどうして頷いてしまったのだろう。 手を引かれることを許した。 男はそれを一瞬驚いたようだったけれど、何も言わなかった。 導かれるままに歩きたどり着いたのは、今朝出たホテルの部屋。 ソファに促され、座る。 その足元に、男は跪いた。 「聞いていい?」 「答えが、ご褒美?」 僕は漸く、余裕の笑みを浮かべる。 「いや、違うけど」 「じゃあ、答える必要はないね」 答えれば、男は笑った。 けれどそれは一瞬で、真剣な顔へと変った。 「ヒバリ、見えてる?」 何を言われたか解らなかった。 「いや、違うな。 色、解ってる?」 言い直されたところで、心臓がバカみたいに音を立てだす。 「何、言ってるの?」 震えそうになる声を必死に抑えて、聞いた。 「何となくだけど、そんな気がしたから」 何となく、って何それ。 たかだか二日で、どうして気づく? 目が見えないワケじゃない、ただ色の把握ができてないってことに。 「…勘違いだよ」 鼻で笑って答えても、視線が泳ぐのは誤魔化せない。 「見えてないんだな」 確信を持った声で、男が呟いた。 握りこまれていた手が、僅かに震えるのを見てしまった。 「なぁ、ご褒美くれるっつったよな?」 「二言はないよ」 何を望むのか予測できないでもないが、 それは今夜限りのモノで、明日になれば他人になると解りきっているから。 それなら、今日は何を望まれても別にいい。 今日を、なかったことにすればいいだけだから。 「なら、一緒にイタリアに来てくれ」 予想外の言葉。 真剣な目をして、何を言うのだろう。 あまりの真剣さに息を呑む。 「…何言ってるの、僕は行かないってあの時言ったよね?」 「でも、二言はない、って今言ったよな?」 遮るように、強く言われる。 その強さに逃げるように、俯いた。 「見てられねぇよ」 僕の前髪を軽く引っ張りながら、悲痛な声で訴えられる。 「3年、たかが3年でどうしてそうも変る?」 変る、と言われたのが、弱くなる、に聞こえた。 そんなこと、知らないよ。 たかが3年と言っても、男も十分に変った。 顔や身体だけじゃなく、考え方も。 昔の僕が知る男は、決して人を殺さなかった。 自分が殺されそうになっても、止めをさすことはなかった。 そんな男が、人を殺すことが当然の世界にいて、 違和感なくその世界に染まっている。 逆なら――僕が、その世界に染まるのならよかったのに。 それこそ、男以上に違和感なく染まれたのに。 僕は、見たくなかったんだ。 そんな男を。 だからあの時、行かない、と言った。 男が行くと行ったから。 それが、すべてだった。 「攫ってでも、連れて行くからな」 ぐっと抱きしめて、男は言った。 僕は頷くことなく、されるがまま。 「…君は、飽きるよ」 呟いた声は、男の身体に阻まれくぐもった。 「ヒバリ?」 「昔の僕はいない。 君の役に立たないし、暇つぶしにもならないよ?」 「暇つぶしって、役に立たないって、何だよそれ。 そんなつもりはねぇよ」 身体を離され、男が怒る。 「僕は、疲れたんだ。 もう戦えないし、戦うつもりもない。 君のもとに行ったところで、何もしないよ?」 「傍にいて欲しいだけじゃ、だめなのか?」 「ねぇ、君。 僕は昔とは変ってしまったけれど、すべてがじゃないよ。 僕にも少なからず、プライドってのが残ってる。 何もせず家にいるだけ? そんなの、僕自身が許せるワケがない」 だから、無理なのだと笑った。 「でも、二言はないって言ったよな?」 訴えかけると言うより、それは脅しに近い。 そんな物言いまで、できるようになったんだ。 そのことに、少なからず哀しみを覚える。 「人形が欲しいなら、他行ってよ」 「そうじゃない、ってどうして解らない」 解らないのではない。 解りたくないだけだ。 「連れて行くから」 了承の言葉を得られないままに、男は決定事項とする。 抗う気力もないまま、僕は目を閉じた。 「昔とは、違うよ」 呟いた言葉は、無視された。 沈黙が答えなのだろうか。 「…ヒバリがいいんだ」 暫くして、男が呟いた。 僕はそれを黙殺した。 答える術など知らない。 3年。 たった3年。 それでも、時間は確実に経過した。 僕は、弱くなった。 男は、人を殺すことに躊躇ない人間となった。 そんな男を見たくなくて、 僕はあの時行かないと言ったのに、今、そんな男を見ている。 行かなくても、見たくなかった男と再会してしまった。 それならば、あの時一緒に行けばよかったのか。 考えたところで答えなど出るはずもなく、 それなら時間を取り戻せばいい、と投げやりな感情に従った。 「勝手にすればいい」 その言葉に、ごめん、と男は謝罪した。 そんな言葉など、聞きたくなかった。 黙って、君は僕を連れ去ればいいのに。 昔の君を垣間見せないでくれ。
06.05.05 ← Back