控え目にドアをノックする音が聞こえて、
それから名を呼ぶ声が聞こえた。

応える気にならなくて、
無視し続けたけれど、それは10分経った今でも続いている。
 
 
 
 

 
  
 
 
 
            ア イ  イ ロ 
   
 
 
 


 
 
 
 


ベッドに寝転がったまま、
じっと騒音の原因である扉を見る。

諦めればいいのに。

そう思い続けても、
ノックの音も、呼びかける声も止められることはない。

安全面のためか、
客室と言えども分厚めの扉で防音効果もそれなりにあるだろうに、
はっきりと名を呼ぶ声と、朝だぞーとか起きろー、とか間の抜けた声が聞こえる。

「…諦めろ」

声に出して言ったのは、
今もなお呼び続けるディーノに対してか、
それとも持て余す感情を持つ自分に対してか。





昨日、自分の感情に気付いた。
同時に、それが遅すぎたことに気付いた。
惨めだった。


そんな原因となった相手となんて、顔も会わせたくない。



ぎゅっとシーツを握りしめて、
布団の中に潜り込もうとしたら、聞き間違いかと思う言葉が聞こえた。

けれど、それで僕を釣ろうとしてるのか、
何度も繰り返されるから、自分の感情よりも興味に動かされた。









「…お、起きたか。
 って、何だ、お前その顔。
 寝れなかったのか?」

僅かに扉を開ければ、
朝から煩いくらいの笑顔のディーノがいた。
けれど、僕の顔を見てすぐに心配そうな表情になる。

碌に眠れなかった。
酷い顔なのは自覚している。

それよりも。

「ねぇ、さっき言ったこと本当?」

心配そうに、顔に伸ばされる手を振り払って訊く。

「え?」

「あなたが作ったって本当?」

「あ、あぁ。
 頑張って作ったんだぜ?
 …だから、ちゃんと食おうな」

そう言って、ふわりと頭を撫ぜられた。

尚も心配そうに、
眠れなかったのか、とでも訊きたそうなディーノを無視して歩き出す。

パジャマなんて当然のことながら持っていなかったけれど、
有りがたいことにクローゼットの中には、
大きいけれど真新しい服が用意されていたから勝手に拝借した。

だから、見苦しい格好なんてしていなから気にしない。


「早く。おなか空いた」

振り返り言えば、ディーノは笑った。

「早く、って、
 お前、場所知らねぇだろ」

朝に似つかわしく太陽みたいな笑顔だった。
そんな笑顔を見ていられなくて、すぐに前を向いた。

場所なんて知らない。
それでも、ディーノより前を歩いていなければならなかった。

だって、今の顔を見せられない。

悔しくって、やりきれなくって、
噛みしめた唇からは、錆びた鉄の味がした。


どうして、あの笑顔は僕のモノじゃない?





 






「…これ、作ったって言うの?」

テーブルにつき、用意されたモノを見て訊いた。

「…一生懸命頑張ったんだよ」

ディーノの言うところの、一生懸命作った食事。
それは、べちゃべちゃした、いっそお粥かと言いたくなるご飯。
お浸しのつもりなのか、グチャグチャになった野菜の塊。
ドロドロに味噌が溶け切れていない御味噌汁。

「…ごめん」

何も答えずにただじっと見入ってたら、謝られた。

「別にいいよ」

そもそも解っていたことだった。

僕が知るディーノは半年前まででしかないけれど、
その時だって何もできなかった。

それを思えば、
ここまでぐちゃぐちゃだとは言え、
日本食らしきモノを作ろうとしただけでも凄い。


「…通いのコックいるんじゃなかったの?」

「…離れにいるにはいるんだけどな。
 いつもは朝は来ないから、頼むの忘れてたんだ」

悪い、と殊勝な顔をされる。

「あぁ。
 あなた、朝は碌に食べなかったね」
、
そう言えば、イタリア人は朝を碌に食べない人種らしい。
お粥だと思えば食べれないこともないご飯を口に運びながら訊いたら、
あー、とか、うー、とか変な声を出された。

訝しく思って顔を上げれば、照れたように笑うディーノがいた。


それで悟った。
朝は、あの女が作るらしい。
イタリア人は朝食を碌に取らないけれど、
あの女はフランス出身だというから、
もしかしたらフランス人はしっかりと作るのかもしれない。

訊くんじゃなかった。

そう思うのに、
碌に回ってくれない頭は止まってくれず、
更に勝手な言葉を口から吐き出した。


「よく日本の食材がこうまであるね」

味噌汁に使う味噌。
お浸しの横に置かれた醤油。
その他、鰹節だとか薬味だとかいろいろとある。

「和食をよく作るんだ」

幸せです、と言わんばかりの笑顔。
誰が、とは訊かなくても明白。

声も出なくなるほどに後悔した。
あぁ、本当に、訊くんじゃなかった。

無理矢理、箸をを運んでいた手を置いた。




どんなに不味かったとしても、
ディーノが作ったモノなら食べてみたかった。
惨めでどうしようなくても、
それでもどうにでもできない感情に振り回されても、
どこかそれでいい、とさえ思う気持ちもあった。

けれど、限界だ。



ディーノが作った和食。
それを毎日作るというあの人。

それはどれだけ繰り返されたのか。
ディーノが失敗したとは言え、作れると思った程度ってどれだけ?

毎日、毎日?


    





「恭弥?
 やっぱ、不味いよな?
 すぐコックを連れてくるからっ」

「待って」

慌てて飛び出そうとするディーノを止めた。

それなのに、
ディーノの顔を見ることなく、ただ真っ直ぐ前だけを向いて続ける。

「もう、あなたと一緒には食事しない。
 朝食はいらない。
 昼食は12時、夕食は19時に部屋の前まで持ってきて。
 食事を置いたら、すぐその場を去って。
 僕と顔を合わせないで。
 顔を合わせようといつまでもずっといると言うなら、僕は扉を開けない。
 食事も取らない」

幸いなことに、
与えられた部屋にはトイレもシャワー室もあれば、
ミニ冷蔵庫があり、その中には飲み物は十分に入っていた。

一週間くらいなら、それでやり過ごすことができる。


「…悪い、そんなに不味いとは思わなくて。
 すぐコック呼んでくるから。
 だから、そんなに怒るなよ」

重い空気を払拭するかのようにディーノが明るく言うけれど、
ディーノだって解っている。

何が原因で僕の態度が変わったかとは解らなくても、
ディーノが言うようなことが原因ではないことを。

だから、態と問題を軽くしようとするのだ。



「ディーノ」

振り返り、ディーノを見た。
ほんの少し前、幸せそうな顔をしてたくせに、
僅かな怯えが見える。

それを見て、胸が軋む痛みを伝えてきた。

そんな顔をするって何。
あなたにとって、僕の位置づけって何?

まだ、僕のことが少しは大事?





あぁ、なんて下らない。
なんて、惨めな。
そんな想いは、いらない。

だから、ディーノ。




「僕は、帰るまであなたの顔を見たくない」

「…恭弥」

呆然とディーノが呟いて、立ち尽くす。
その横をすり抜ける。

その瞬間、ふわりと甘い香りがした。








ディーノが付けていた昔と変わらない香水。

人工的な匂いは嫌いだった。
それなのに、唯一ディーノのそれは嫌いではなかった。

思えば、そんな小さなことでさえも、
僕が気付かなかっただけで、ディーノに好意を抱いていた証明だったのかもしれない。


ふわりと香るそれは、
いつだって甘く温かな気持ちにしてくれた。

それなのに今は、
帰れない昔を思い出させるばかりで、
ただ、ただ、哀しかった。






10.04.12 Back   Next →