殴った右手が痛かった。 男はいつものように止めることも、 避けることもせずそれを受け止めたのは、 多少なりとも、そうされるだけの自覚があったからだろうか。 ヒトリノ夜 口論はいつものことで、怒った僕を笑いながら男が宥めるのもいつものこと。 いつも内容は下らないことだから、収拾も早くつく。 それなのに、今回は違った。 男が言った言葉が、いつものことで終わらせなかった。 「ヒバリはどうしたいんだ?」 いつもの苦笑で、宥めるように言われた言葉。 何それ、と言いたかった。 それなのにそんな言葉は出てはくれず、 一瞬の間をおき、握り締めた右手で殴りつけた。 それを、男は止めることも避けることもせず、 何故か呆然と僕の顔を見ているうちに黙って殴られた。 それでもまだ呆然としたままの男を置いて、僕は家を飛び出た。 行くあてなど、ひとつしかない。 仲が良かったかと言えば、別にそうじゃない。 それでもそれなりの関係がある人間の所に行く気などなく、 向かうのはいつもその場所。 いつもと違う口論の末の結果でも、向かう場所は変わらない。 天然バカでお人よしな所が誰かに似ていて、 けれどその誰かとは違って、それは偽りではなく本物。 だから、いつもそこに足が向かう。 「入れてよ」 突然訪れた僕に、笹川は何も言わずに入れてくれる。 どうしたとも、 また喧嘩したのかとも、何も言わない。 ただ最初に、一緒にトレーニングを、と勧めてくるが、 それを断れば、そうかと笑って、勝手にしていいぞ、と言う。 だから勝手に部屋に上がって、 勝手にソファに座って、 勝手にその辺にあったDVDを入れた。 笹川は相変わらず何も言わず、隣の部屋で筋トレをしている。 狭い部屋。 モノが多い部屋。 それでも雑然としてるように見えない部屋は、どこか安心した。 ぼんやりとしたまま、字幕を追った。 働かない頭では、映画の内容を捉えきれない。 男を知る誰もが、 男のことを、優しい、と言う。 けれど、僕から言わせて貰えばそれは違う。 男の浮かべる笑みは、優しさなんかじゃない。 笑って拒絶しているだけだ。 ここからは入るなと、笑顔で境界線を引き締め出す。 そうして偽って生きてきた男は優しいはずがなく、 笑みが拒絶であると知った人間には、それは残酷に映る。 バカらしい。 残酷って何それ。 自分がさもそれを目の当たりにしたみたいじゃないか。 そんなことは有り得ない。 男の言葉に傷つく僕なんて、有り得ない。 そう思うのに、知らず手はきつく握り締められていた。 どうしたい、と言った男をもっと殴ってやればよかった。 あんな一発じゃなく、もっと酷く痛めつけてやればよかった。 「先輩、ヒバリいます?」 映画も終盤に近づいた頃、男の声がした。 それから男が中に入ってくるのと入れ替わりに、笹川は出て行った。 気を効かしてでは勿論なく、単にロードワークに行く時間になったから。 なんてタイミングが悪いんだろう。 「ヒバリ、帰ろう?」 宥めるような声が、僕を苛立たせる。 「俺が、悪かったから」 何が悪いか解ってもいないくせに、 その場しのぎの言葉しか吐かない男が憎かった。 「君、何か悪いことしたの?」 問えば、男は口ごもる。 ほら、やっぱり解ってなんかいない。 「解ってないんでしょ? 悪いと思ってないなら、謝る必要なんてないんじゃないの」 「俺、ヒバリが傷つくようなこと、何か言ったか?」 誰が傷ついたと言うのか。 僕は、傷ついてなんかいない。 何も解っていないくせにそんなことを言う男を、 出来るはずもないくせに、どうして解らないのかと、バカみたいに喚いて罵りたかった。 「僕は、僕のしたいようにしてる」 言いたい言葉すべてを飲み込んで、振り返って言った。 それしか、言葉はなかった。 それで、気づけ、と思った。 「何?」 「別に。 君にとやかく言われる謂れはないってことだよ。 だから、もう帰ったら?」 これで解らないのなら、もういい。 もう君は、いらない。 言うだけ言って、映画に視線を戻す。 相変わらず、内容は捉えきれず、ただ白黒の画面だけが視界に映る。 「…今日は、帰るわ。 ちゃんと寝ろよ」 男は暫く黙り込んだ後、小さく呟いた。 最後にかけられた言葉が、僕を酷く苛立たせた。 優しいのか、酷いのか、 いつも曖昧で、僕はただ苛つくばかり。 鍵がポストに入ってカチャリと鳴った小さな金属音が、虚しく胸に響いた。 ――ヒバリは、どうしたいんだ? 男はきっとそれを、何気なく言った。 意味もなく、口にした。 そんな言葉に、僕は苛立つ。 主体性のない言葉。 僕の意見を聞くふりをして、 その実、男は僕が何を言おうが別にどうでもいいと思っているいい加減な言葉。 子どもの機嫌を取るような、その場凌ぎの言葉。 男にとって、僕の位置づけを思い知らされた。 対等ではない、と思い知らされた。 そんな関係を、僕が許せるはずもない。 僕は僕の意思で、好きなようにやっている。 男の手など、必要ない。 ――だから、 そんな関係でしかないと言うのなら、あんな男などいらない。
06.08.20〜21 ← Back Side.Y →