殴られた頬が痛かった。 いつものように止めることも、 避けることもせずそれを受け止めたのは、 多少なりとも、そうされるだけの自覚があったからだろうか。ヒトリノ夜
ちょっとしたことでヒバリが怒るのはいつものことで、それを俺が宥めるのもいつものこと。 内容が下らないことだから、収拾も早くつく。 それなのに、今回は違った。 怒っているような、 酷く傷ついたような顔をしてヒバリは俺を殴った。 それを、俺は止めることも避けることもできず、 ただ呆然とヒバリの顔を見ているうちに殴られた。 ヒバリが出て行った後も暫く動けず、数時間経って漸く覚醒。 何処にいるかなんて、知っている。 飛び出したヒバリが行く所は、いつも変らない。 いつもと違った今日でも、ヒバリはそこにきっといる。 他の男の所に行くことを思えば、 考えるまでもなく安全な所のくせに、 何故いつもそこなのかと、逆に苛立ちを感じるのというのも本音の所。 「先輩、ヒバリいます?」 高級なマンションにでも住もうと思えば住めるくせに、 先輩は何故か安アパートに住んでいる。 襲撃くらったらどうするんですか、と問うツナの問いにも、 歓迎するぞ、と楽しそうに拳を握り締める先輩に、 ツナは諦めたようで口出しするのは止めた。 「あぁ、映画見てるぞ」 「入っていいですか?」 「俺はロードワークに行くから、 帰るときは、鍵はポストにでも入れといてくれ」 じゃ、と言って走り出した先輩。 気を利かせたからじゃなくて、単にそんな時間だったってだけ。 それにしてもポストって…、 と思わないでもないが、あの人には何を言っても仕方がない。 一応、お邪魔します、と声をかけて、勝手に上がりこんだ。 ヒバリは部屋の明りも点けず、ソファに座ってモノクロの映画を見ていた。 「ヒバリ、帰ろう?」 問いかけても、 ヒバリはこちらを振り返りもしないし、何も言わない。 「俺が、悪かったから」 何が悪いか解ってもいないくせに、 そんな言葉を吐き出せば、案の定ヒバリが口を開く。 「君、何か悪いことしたの?」 相変わらず、視線はくれずに問われた言葉に口ごもる。 「解ってないんでしょ? 悪いと思ってないなら、謝る必要なんてないんじゃないの」 でも、謝らないと、帰ってこないんだろ? だったら、謝るしかないじゃねぇか。 俺は、離れる気なんてないんだから。 「俺、ヒバリが傷つくようなこと、何か言ったか?」 行動はいつもと変らなかった。 それなのにあんな表情をしたヒバリ。 だったら、それは何かを言ったからでしかない。 そしてそれは当たりだったようで、 ヒバリは黙り込んだ後に、やっと振り返る。 「僕は、僕のしたいようにしてる」 逸らすことなく俺を見上げ告げられた言葉は、よく解らない。 「何?」 「別に。 君にとやかく言われる謂れはないってことだよ。 だから、もう帰ったら?」 酷く冷たい声でそれだけ言うと、また映画へと顔を向けられる。 言葉の意味を考える。 それでも、答えは出るはずもなく。 解らない、と言うはずの言葉は、 全身で拒絶するヒバリを前に飲み込むしかなかった。 ヒバリの言葉の意味を理解していない今、 何を言っても無駄だということしか解らない。 「…今日は、帰るわ。 ちゃんと寝ろよ」 それだけ呟いて背を向けた。 ヒバリは変らず何も言わなかったし、振り返りもしなかった。 渡された鍵を使って施錠して、それをポストに入れた。 カチャリと鳴った金属音が、虚しく胸に響いた。 俺からすれば、何もかもがいつものことだった。 ヒバリを傷つけただろう自分の言葉は、何の意味を持たないモノだった。 だから、何を言ったのか覚えていない。 そんな高々数時間前の自分が、呪わしかった。 帰り道、 どれだけ思い出そうとしても、何も思い出せなかった。 俺が思い出さない限り、ヒバリは帰っては来ず、 その間ずっと、あんな顔でいるヒバリを思うと、酷く遣る瀬無かった。
06.08.20 ← Back Side.H →