彼は、そこにいた。 固く目を閉じ、右手を空に伸ばし。 What am I for you? 伸ばされた手は、祈るようにも救いを求めるようにも見えた。 けれど、その手が静かに下ろされようとしている。 諦めるように。 だから、思わずその手を掴んだ。 開けられた両目は、今にも泣きそうなほど潤んでいながらも、 どうして、と驚きを伝えてくる。 けれど、答える術を知らない。 訊ねられたいのではなくて、私こそが訊ねたいのだから。 暫く視線を交わせていたが、彼は諦め俯いた。 そして、ぎこちない敬語で小さく呟く。 離してください、と。 けれど、私は離さない。 いや、離せない。 その理由は、知らない。 掴んだ手をそのままに、訊いた。 「君は、誰だ?」 ゆっくりと顔を上げ、彼は笑う。 そして、また告げる。 「シンタロー」 それは、答えにならない。 それだけでは、足りない。 「私にとって、君は何だ?」 彼の目が僅かに揺れたが、それでも視線を逸らすことなく告げてくる。 「シンタロー。 それ以上でも、それ以下でもない」 「…では、君にとって私は?」 黒い目が見開かれる。 けれど、それは一瞬で力なく笑った。 「さぁ…。 今、それを考えているんですけど、解らない…んですよ」 視線を落とし、彼は呟く。 その声は痛々しく、胸がざわめく。 「…ビデオを見たよ」 呟いた言葉に小さく彼は反応したが、視線はそのまま。 「君が、私のことを『パパ』と言って笑っていた。 私の息子はグンマなのに…」 彼が漸く、顔を上げる。 「アンタの…あなたの息子は、グンマですよ」 真っ直ぐに目を見て、告げられる。 「…では、君は?」 「…息子、ではないです。 見ての通り、色が…違うでしょう? 息子のはずはない…ですよ」 彼はまた俯き、首を横に振る。 「でも、ビデオの中で君はパパと言っていたよ?」 「覚えて…いないんでしょう?」 ゆっくりと顔を上げ、彼が口を開く。 拒絶の言葉を吐きながら、見上げてくる視線は縋るようだった。 「…敬語を私に対して、使ってなかったんだね」 ぽつりと零れた言葉に、彼がびくりと震えた。 唇を噛み締め、再び視線を落とす。 彼の口調は、先ほどからぎこちない。 敬語が、たどたどしい。 私に敬語を使わない相手など、限られている。 それを許している人間など、限られているからだ。 「私は軽んじられることが嫌いでね、 敬語を使わないでいいと許した相手は限られている。 それなのに、君は敬語を使っていなかったようだ。 それどころか覚えてもいないくせに、君に敬語を使われると違和感を感じてしまう。 だから、使わなくていいよ。 そんなことを思う程度には、私にとって君は大事な人であったと思うんだけどね」 覚えていないけれど彼は私と面識があるようで、 その上で敬語を使っていないとなると、それは一体何を示すのか。 彼は、私にとってどんな存在だったのか。 頭を過ぎるのは、あの映像。 幼い彼が、私をパパと言っていた。 ――彼は、私の息子なのだろうか。 「でも、覚えてないんだろ?」 俯いていた顔を上げ見上げてくる目は、とても強い。 敬語を使うことは、止めたらしい。 そのほうがしっくり来る。 本当に、それは何を意味するのか。 「…あぁ」 「だったら、忘れればいい。 覚えてないということは、些細なことでしかない。 だから、思い出さなくても支障がない。 俺がいなくても…何も変ることなどないんだから」 彼の言うように、支障はない。 団のことはすべて覚えている。 経営に何も問題ない。 家族のことも覚えている。 だから、何も支障はない。 けれど、気になるのだ。 思い出さなければいけない、と焦る気持ちがある。 彼を思い出したい、という気持ちがある。 答えない私を睨みつけ、 捕らえられたままだった手を、彼は思いっきり振り払った。 彼は立ち上がり、背を向け歩き出す。 けれど、立ち止まり振り返った。 傷ついていることを必死で隠し、何事もなかったかのように笑った。 「最後だから言ってやる。 ――愛してたよ」
04.11.08〜12.26 ← Back Next →