名を呼ばれた。 君でも何の気持ちもこもらぬシンタローでもなく、聞きなれた呼び名で。 What am I for you? 期待してもいいのだろうか。 振り返りたいのに、振り返ることが怖い。 自分に向けられることのなかったあの冷たい目で見られたら、どうすればいい? あんな目を見るくらいなら、 僅かに生まれた可能性さえもふっきって逃げたい。 けれどそんなこともできず、立ち止まったまま。 信じたいんだ。 俺のことを忘れたとしても、絶対に思い出してくれると。 好きだの愛してるだの言ったすべてが、嘘じゃなかったと。 その先にあるのは、希望か絶望か。 不安を隠す余裕もなく振り返った先に、よく見知った表情のマジック。 いつも向けられていた笑み。 その意味は何だ? 希望? それとも絶望? 「シンちゃん」 戸惑ったままの俺に、マジックがまた名を呼ぶ。 それから、伸ばされる手。 ふらふらと、その手に引き寄せられる。 もう少しでその手に触れるところで、立ち止まる。 見上げた顔は変らず笑んでいて、まだ状況が解らない。 この笑みは何なのだろう。 俺を俺として、ちゃんと認めてくれているのだろうか。 それとも、単なる思いつきなのだろうか。 不安を煽る笑みを見ていられなくて俯いた。 「シンちゃん、何処に行くの?」 ぎゅっと手を掴まれ、訊かれる。 「…らない」 知らない。 何処にも行く場所なんてないのだから。 ただ、目の前にいる自分を知らない男から離れたかっただけだから。 「知らないって、何それ。 シンちゃん、そんなトコに行かなくてもパパの傍にいればいいんだよ」 その言葉に、弾かれたように顔を上げた。 パパ、って言った。 絶対に言った。 アンタ、ちゃんと俺が誰だか解ってんの? 訊きたいのに、声になってくれない。 声を出そうとすれば、今にも泣き出そうと喉が鳴るだけ。 「シンちゃんは、パパの傍にいればいいんだよ。 ま、シンちゃんが嫌って言っても、パパは追いかけるけどね」 マジックはふっと笑って、あいていた手で頭を撫ぜる。 思い出したんだ。 全部、思い出したんだ。 そのことが、嬉しかった。 何よりも、嬉しかった。 でもそれを言葉に出せるほど素直になれなくて、見上げたままに言った。 「忘れてたくせに」 その言葉に笑っていたマジックの顔が強張る。 それを見せないようにするかのように、ぎゅっと抱きしめられた。 「ごめんね」 たった、一言。 それなのに、その一言がすべての気がした。 でもやっぱり素直になれるはずもなく、憎まれ口を吐いた。 「それだけかよ」 「うん、ごめん。 何を忘れても、お前のことを忘れたらいけないのにね」 聞いているこっちが哀しくなるほどの声でそんなことを言われてしまえば、 もう何も言えなくて黙るしかない。 「でも忘れたままのほうが、お前にはよかったのかもしれないね」 一瞬、何を言われたのか解らなかった。 それが理解できるまで数瞬かかり、理解できた時には怒りが生じる。 どれだけ俺が苦しんだか解らないのか、と怒鳴ってやりたかった。 けれど続いて出てきた言葉に、また何も言えなくなる。 「そうしたら、お前は自由になれたから」 自由を、どれだけ望んだだろう。 逃げて逃げて逃げまくっていた頃が懐かしい。 逃げたところで、結局はマジックの手の内だった。 それが、悔しかった。 今マジックの傍にいるのは、諦めたからじゃない。 逃げるのではなく、向き合った結果だった。 俺は自分の意思でマジックの傍を選んでいた。 だから、俺は自由だったんだよ。 それにマジックに忘れられたところで、手遅れだ。 俺が、忘れられるはずもない。 自由はそこにはなく、ただ苦しいだけの生があるだけ。 だから、俺は自由だった、 と伝えようと口を開いたのに、マジックに遮られる。 「ごめんね。 それが解っているのに、それでもどうしようもないほどに愛しているんだ」 拘束していた腕が緩んで顔を上げると、マジックが苦笑していた。 「ごめんね」 言ってることと、やってることが矛盾している。 でもそれを嬉しいと思ってしまう、俺は結局は馬鹿なのだろう。 あれだけ苦しんだのに、それでも今が嬉しければもう何でもいい。 そう思ってしまう自分の馬鹿さ加減に呆れる。 「うるせぇ、もう謝んな」 急速に現状を思い出して、知らず赤くなる顔のまま腕から逃れようともがく。 が、それを許すマジックでもなくて、拘束は強まるばかり。 もがきまくったところで、緩やかな拘束は解けない。 いい加減、疲れて諦めた。 それを見取って、少しだけ拘束が緩んだ。
05.08.12〜11.20 ← Back Next →