1時間も車を走らせば、見覚えのある景色が続く。
もう何年ぶりになるのだろう。

士官学校の寮に入ってから、一度も訪れていない。
マジックも、同じだと思っていた。
寮に入った俺と同時に、
マジックも以前から時折使っていた本部上層部の部屋で過ごすようになったから。

――だけど、違ったんだな。







Each happiness of the black dog and me. 2







十数年ぶりに訪れた家は、以前と何も変わっていなかった。
芝生が広がり奥へと足を踏み入れれば、イギリスの別宅と同様に季節の花が咲き乱れていた。
そしてマジックが、見たことのない黒い大きな犬を抱いて座り込んでいる。


気配を消すことなく、近づいた。
背後に立てば、マジックは振り向き苦笑した。




「グンちゃんに、聞いたのかな?」

「あぁ」

ティラミスのことは、言わなかった。
言う必要などないと思ったから。

「…そうか」

マジックは小さく呟き、もう動かぬ犬の背を撫でる。

言葉が、見つからない。
訊きたいことも、言いたいことも山ほどある。
けれど、それは言葉になってくれない。

馬鹿みたいに立ち尽くしていると、マジックが俺を見上げてきた。



「シンちゃん。
 パパ、シンちゃんと距離を置こうと思うんだけど…いいかな?」

脳が、うまく働かない。
目は、困ったように笑うマジックを捕らえている。
耳は、マジックの言葉を聞き取った。
けれど、理解ができないでいる。


何なんだ…。
今日は、一体何なんだ?

許容範囲を超えている。

マジックが、犬を飼っていたことなど知らなかった。
でも、ティラミスは知っていた。
飼っていることも、その理由さえも。
それなのに、俺は知らなかった。

それだけでもワケが解らなくなりそうだったというのに、今マジックは何と言った?

距離を置く?
アンタが?
俺と?

できるのか?、と笑って言ってやればいい。
有難いね、と笑って言ってやればいい。


望んだことだろ?
ずっと望んできたことだろ?

――それなのに、どうして俺は何も言えない?



困惑のあまり立ち尽くす俺に、マジックが苦笑しながら手を伸ばしてきた。
縋るように、その手に抱きこまれることを自分に許す。
膝をつき、マジックの片腕に囲まれる。

マジックと自分の間で、とうに冷たく硬くなった犬が邪魔をする。

考えることすらできなくなった俺は、馬鹿みたいに目を開けマジックの肩越しの風景を見やる。
芝生と花と、薄暗い空だけが映った。






「シンちゃん、死は哀しいね」

自分の耳を疑った。
人を殺し続けてきた人間が、今更何を言う?

笑ってやりたかった。
けれど声を出せば、泣きそうだった。
ティラミスは、この犬は俺の代わりだったと言ったから。

だから答える代わりに頷けば、マジックが小さく笑う。


「…この犬ね、シンちゃんがパパの相手をしてくれなくなってから、飼うようになったんだよ。
 真っ黒い毛並みがね、シンちゃんみたいで。
 …シンちゃんは猫って感じなんだけど、猫はいつか出て行くから犬でよかった。
 そう思って飼ってたんだけど、ダメだね。
 犬は出て行かない代わりに、死を直視させるから…」

訥々と、らしくなくマジックが告げる。
その言葉に答えられなくて、垂らしたままだった腕でマジックを抱きしめた。


過去を、思い出す。

マジックに頬を殴られたこと。
秘石を盗んで逃げたこと。

あの時、マジックはどんな思いだったのだろう。
どんな思いで、あの後から勝手にいなくならない犬を飼っていたのだろう。


謝る気はない。
あの時、最善と思うことをしたから。
けれど胸に生じるこの思いは、何だというのか。

俺は、悪くない。
そして、恐らくマジックも悪くはない。
マジックもあの時、最善と思うことをしたはずだから。







「…だからね、シンちゃんと距離を置こうと思うんだ」

何が、だから、なのか。
一体どう言う論理でそうなるのか。

「…アンタ、意味解んねぇよ」

哀しい、悔しい、腹立たしい。
そんな思いが、交差する。

その思いに気づいたのか、マジックがまた苦笑する気配が伝わってきた。



「いつも一緒にいたワケじゃないんだよ」

何が?、と問う前にマジックは、シンちゃんと違って、と付け足した。
その言葉に、冷たく動かなくなった犬のことを言っているのだと理解する。

「ほら、総帥業って忙しいから。
 それにシンちゃんが総帥になったらなったで、パパ嬉しくってシンちゃんの傍にずっといたからね。
 だからここには、たまにしか来なかったんだよ。
 車で1時間の距離なのにね。
 …愛していたのにね」

告げられる言葉に、僅かばかりの自嘲が感じられた。
何処までも、らしくない。

だから、何も言えなのだ。
だからつられて、マジックを抱きしめるというらしくない行動をしてしまうのだ。

マジックは、構わず続ける。

「でも、だからかな…。
 実感が、ないんだよ。
 今、冷たく硬くなった身体を抱いているけど、死んだという実感がない。
 これからお墓に埋めても、家に帰ってしまえば忘れてしまいそうなんだ。
 日常に溶け込んで、
 シンちゃんと喧嘩した時や遠征でいない時にふらりとここに来たら会えるって思ってしまう。
 傍にいると、いなくなった時に耐えられない。
 でもいつも傍にいなかったら、
 今は会えないけれど会いに行けばまた会えると…生きていると夢を見れらる。
 だから…」

マジックは言葉を切り、強く抱きしめてきた。
それに不安を覚え抱きしめ返せば、酷く弱い声で告げられた。

――だから、距離を置こうと思う。



静かに、静かに告げられる言葉。
けれどその言葉には、狂気が見え隠れする。

相変わらず、言葉が見つからない。
哀しい、悔しい、腹立たしい。
混乱する頭は限界を向かえ、視界が滲に出す。

流れ出す前に塞き止めるために、マジックの肩へと押し付けた。
マジックは何も言わず、抱きしめる力を加えた。

だけど、犬が邪魔をする。
俺の代わりだという犬が、邪魔をする。

何に対して、思いをぶちまければいいのか解らない。
そもそも、ぶちまけるべき思いが何なのかさえも解らない。

ただ、解ることはひとつ。
――距離を置かれることが、嫌だということ。

離れたい、解放して欲しい、と思い続けていたくせに、胸の奥底に眠る思いはそれだった。






04.10.21〜22 Back   Next →