司令部は昼間と違い人気がまばらだった。
知った顔に会わない。
それはいいことなのか、悪いことなのか。
Collapse of balance.
重い気分を深呼吸で落ち着かせ、重厚な扉をノックする。
「誰だ?」
いつもの副官ではなく、彼の低い声が聴こえる。
彼女はもう帰ってしまったのだろうか。
「…エドワード・エルリック…です」
「…入りたまえ」
許可を得る前に少しの間があったことに不安を感じながらも、
そっと扉を開けるとコートに身を包んだ彼がいた。
しかも、目の前に。
帰ろうとしたところだったのか、電気の消えた部屋の中、扉の近くに立っている。
彼との距離は、ほんの1メートルほど。
その間にはいつも彼との距離を感じてしまう重厚な机などなく、
手を伸ばせば触れられる距離で思わず手を伸ばしそうになる。
けれど、彼の声が聴こえ踏みとどまる。
「どうした?」
伸ばしかけた手を不自然にならぬように、ポケットに突っ込む。
「いや、何でもない」
「何でもないじゃないだろ?
忘れ物でもしたのか」
その言葉で、手を伸ばしかけたことを見られていなかったと解りほっとする。
「ん、あぁ。
今日ちょっとぼーっとしててさ。
その…あまり大佐の話聞いてなかったから、もしかしたら情報聞き逃したかと思って…」
言いながらも、視線を大佐の足元に彷徨わせる。
部屋の明かりは消えていて外から漏れ入る光だけが光源なのだから、
きっと顔を上げたところで彼の表情など禄に見えないと解っていても、
それでも視線を上げることはできなかった。
「ぼんやり、はいつものことだけどね」
小さく呟く声が聴こえて顔を上げたけれど、当然の如くその表情は見えない。
「何…を…」
問う自分の声は酷く小さいうえに掠れていて届かなかったのか、
彼は彼自身が吐いた言葉すらなかったかのように、いきなり明るすぎると言える声で話し出す。
「鋼の、食事はまだかね?」
「え、あ、まだ」
まだ、と言うよりも、食べる気がなくてアルに嘘までついている状態なのだけれど。
「そうか、それならよかった。
私もまだなんだよ。
奇遇だね。付き合いたまえ」
言いながら、彼は俺の腕を――掴んだ。
それは、もう極自然に。
彼にとっては何でもない動作。
けれど、自分にとってはとんでもないこと。
心臓が、痛んだ。
ドキドキするなんて可愛いものではなく、ズキンと痛みが走る。
泣きたくなった。
泣けないくせに、泣く資格もないくせに。
ぎゅっと唇を噛み締めて、その手を振りほどいた。
「鋼の」
呼ぶ声は、何故か静かだった。
「…悪い」
相変らず、自分は下を向いたまま。
彼の足元を見やる。
その距離はずっと縮んでいて、50センチもないくらい。
こんな距離は、自分と彼の距離ではない。
ほら、あの机をを見ろ。
あの机を挟んで対峙する彼と自分こそが、正しい距離なのだ。
なのに、どうしてこの距離にいる。
こんな距離など違うのに。
ポケットの中、握りこんだ手をさらに握りこんで笑顔を作る。
それから、初めて彼を振り仰いで――
「久しぶりに早めに上がれるんだろ?
女のところに行けよ。
タラシはタラシらしく、野郎なんか誘ってんじゃねぇよ」
声は、いつもの生意気な声が出たと思う。
表情は解らないけれど、どうせこの暗闇の中だ。
例え失敗しても、そうは気づかれないだろう。
なのに、彼は何も返事をしない。
何か、失敗した?
痛む胸を無視して顔を見やっても、影となっていてよく見えない。
彼は何の動作もしない。
「…大佐?」
呼びかければ、ぴくりと肩が動くのが見えた。
らしくない行動。
「あ、ああ。
…すまなかったね。少し…」
歯切れ悪く言葉を紡ぐ。
本当に、らしくない。
「大佐、大丈夫か?」
「…」
何も答えない彼。
そして、彼以上に何もできない自分は、視線をまた足元に彷徨わせる。
「…大佐、早く帰れよ。
俺も、帰るし」
「情報は…、情報はあるけどいいのかね」
「いいよ。
別にあてのある旅じゃないから、少しくらいこっちにいても。
だから、大佐は今日はゆっくり休めよ」
情報だけ聞いて帰ってもよかったけれど、この場の雰囲気から一秒でも早く逃げたかった。
彼の返事も聞かず、背を向け手を伸ばし扉を開ける。
けれど、その手を掴まれる。
――だから、
だから、どうしてこの男はこういうことをするのか。
泣きそうになるから、本当に止めてくれ。
「たい…っ」
続く言葉は出なかった。
振り返ったら、彼の表情が見えてしまったから。
扉を開けたことで入ってきた光のせいで、彼の表情がはっきりと見えてしまった。
彼は、静かに自分を見ていた。
その表情は、無表情のようだというのに、痛みを耐えているようにも見えた。
「…大佐?」
呼べば、掴まれていた手を強く引かれる。
目の前に広がる青。
伝わる体温。
抱き込まれている、と理解したのは、後ろで扉の閉まる音を聞いたのと同時だった。
04.05.24
『Collapse of balance. 』=均衡の崩壊。
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