定時から1時間ほどの遅れで仕事が終わった。
子どもと会った日はいつもこうだ。
何も考えぬように仕事に集中する。
一種の逃避だと解っていても、それしか何も思い浮かばないのだ。







Collapse of balance. 







室内の電気を消しコートを着込んだところで、ノックの音がした。

「誰だ?」

問えば、消え入るような声が返ってきた。

「…エドワード・エルリック…です」

一瞬、思考が飛ぶ。
一番会いたくて、一番会いたくない人物。
けれどそう言ったところで断る気などさらさらなく、結局は招き入れるしかない。

「…入りたまえ」

返事に間があいてしまったことに子どもは戸惑ったのか、静かに入ってくる。
部屋の外から光を受けながら、子どもが姿を現す。
目の前に、子どもがいる。
互いを阻むものは何もなく、
手を伸ばせば触れられる距離で、無意識にも手を伸ばしそうになる。
けれど、急いで自制をかけ、不自然にならぬよう話し掛ける。



「どうした?」

子どもは何故か驚いたように僅かに肩を震わせたような気がしたが、何事もないように静かに答える。

「いや、何でもない」

「何でもない、じゃないだろ?
 忘れ物でもしたのか」

「ん、あぁ。
 今日ちょっとぼーっとしててさ。
 その…あまり大佐の話聞いてなかったから、もしかしたら情報聞き逃したかと思って…」

言いながら、子どもは視線を足元に彷徨わせる。
部屋の明かりは消えていて外から漏れ入る光だけが光源なのだから、
きっと顔を上げたところで自分の表情など禄に見えないと気づいているのだろうに。
子どものその態度が、気分を重くさせた。
そのせいで、こぼれ落ちた心情。


「ぼんやり、はいつものことだけどね」

子どもは声が聴こえたのか顔を上げた。
暗闇に慣れた目は、子どもの表情を捕らえる。
金の目が、不安げに揺れる。

「何…を…」

問う声は酷く小さく、掠れていた。
子どもを不安にさせたいわけではない。
だから何事もなかったかのように、殊更明るい声で話し出す。



「鋼の、食事はまだかね?」

「え、あ、まだ」

いきなりの話の切り替えについて来れないのか、子どもが口ごもる。

「そうか、それならよかった。
 私もまだなんだよ。
 奇遇だね。付き合いたまえ」

押し切るように言いながら、子どもの腕を――掴んだ。
それは、極自然に。
けれど掴んだ瞬間、悔いた。
触れてしまったと。

子どもは数瞬何かを耐えるように動きを止めていたが、手を振りほどく。
胸に鈍い痛みが走った。



「鋼の」

静かに名を呼ぶ自分の声が聴こえたが、他人の声のようだ。
胸が鈍い痛みをじわじわと伝えてくる。
子どもに、侵食されていく。

「…悪い」

どこか呆然とした口調で、相変らず下を向きながら子どもが答える。
同じように、自分も足元に視線を向ける。
子どもと自分との距離は、50センチほど。
この距離をどんな思いで見ているのだろうか。

そう思っていると、子どもは奥の執務机に視線を向けた。
ゆるゆると、けれど、確実に意思がその目に現れてきた後、
また何かに耐えるように目を閉じ、動きを止めた。


それから、初めて意思を持って自分を振り仰ぐ――




「久しぶりに早めに上がれるんだろ?
 女のところに行けよ。
 タラシはタラシらしく、野郎なんか誘ってんじゃねぇよ」

声は、いつも第三者を交えた時の生意気なそれ。
けれど、子どもは自分の表情に気づいているのだろうか。
笑っているのに、泣き出してしまいそうだということを知っているのだろうか。

その痛々しいまでの姿に魅入ってしまう。


「…大佐?」

不安を滲ませる呼びかけに我に返る。
その際、僅かに驚き、ぴくりと肩が動いた。

「あ、ああ。
 …すまなかったね。少し…」

続く言葉は、魅入ってしまった、だったけれど言えるはずもなく、
口ごもれば、心配そうに下から覗き込んでくる子ども。

「大佐、大丈夫か?」

「…」

そんな姿にも、魅せられてしまう自分。
失うものばかりで得るものなど無いに等しい、と解っていながらも、
子どもを強く欲するこの想いを、もはや止めることなどできないことを改めて自覚した。



「…大佐、早く帰れよ。
 俺も、帰るし」

その声に焦り、何とか引きとめようとする。

「情報は…、情報はあるけどいいのかね」

「いいよ。
 別にあてのある旅じゃないから、少しくらいこっちにいても。
 だから、大佐は今日はゆっくり休めよ」

子どもは逃げるように言葉を紡ぎ、背を向け手を伸ばし扉を開ける。
それを阻むように、咄嗟に手を掴む。
子どもは肩を揺らし驚き、振り返り、名を呼ぶ声を――途中で止めた。


「たい…っ」

驚きに見開かれる目。
扉の外から入ってくる光のせいで、輝きを増す髪と同じ金の目。
その目が、自分を捕らえて離さない。

「…大佐?」

恐る恐る名を呼ぶ声。
けれど、それだけで理性をなくすには十分だった。
理性など、もうとっくに限界にあったことを知った。
掴んだ手を強く引き寄せる。

抱き込んだ小さな身体。
視界を埋め尽くす金。


この手に抱いている、と実感できたのは、扉の閉まる音を聞いたのと同時だった。







04.05.24 『Collapse of balance. 』=均衡の崩壊。
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