背後で、ノックもなく扉が開けられる音がした。
見回りの時間にはまだ早いが、誰かが見回りに来たのだろう。
「すぐに帰るから、ここはもういい」
振り向くこともせずにそう伝えても、
入ってきた人間は何も言わないどころか立ち去る気配もみせない。
訝しく思いながら振り返れば、暗闇の中、俯いた子どもが立っていた。
May I touch?
幻を見ているのだろうか。
今になって、酔いが回ってきたのだろうか。
呆然と、その姿を見つめる。
名を呼びたいのに、声が出ない。
先ほど何度も繰り返し名を呼んでいたというのに、今は一度もその名を呼べない。
身体も、動かない。
振り返ったまま、動けないでいる。
ただ、子どもを見つめる。
子どもがゆっくりと、顔を上げた。
室内は薄暗いというのに、何故かその表情が笑っているように見えた。
痛みを堪えた、そんな笑顔で。
「…本当は、来るつもりなかったんだ」
呟く声は小さい。
「何もなかったことにして、忘れて――」
言いながら、少しずつ子どもは近づいてくる。
「馬鹿みたいに笑ったり、怒ったりできるようになってから…来るつもりだった」
少しずつ、少しずつ子どもが近づいてくる。
それなのに、自分は未だに動けない。
ただ、子どもを見ている。
「…俺、何言ってるんだろ」
最後にぽつりと呟くと、子どもは俯き止まった。
それは、手を伸ばせば触れられる位置で――
手を、伸ばしてしまった。
触れてしまった。
ぴくりと身体を震わし、子どもは顔を上げる。
その頬に、触れる。
「鋼の、好きだよ」
名を呼ぶことすらできなかったというのに、今、想いを告げる言葉は自然に出ていた。
リスクのことなど、頭から消えていた。
ただ、今言わなければ、と思った。
今しかない、と思った。
大きな金の目が、ゆっくりと瞬きをする。
そして、流れ落ちた透明な雫。
それを手で拭ってやりながら、もう一度告げた。
「鋼の、好きだよ」
子どもは何も言わず目を閉じ、涙を静かに流す。
それを拭ってやりながら、繰り返し想いを告げる。
今まで言えなかった分を取り返すように、何度も何度も…。
再びゆっくりと子どもは、目を開けた。
もうそこに涙はない。
けれど、戸惑うような目で見つめてくる。
「…て…いい?」
何か言われるが、小さく掠れた声のため聞き取れない。
「何だね?」
促せば躊躇しながらも、もう一度口を開いた。
「…触れて…いい?」
恐る恐る見上げてくるその目に、
どうしようもないほどの愛おしさが込み上げて、何も応えられなくなる。
こんなに誰かを愛おしいと思ったことなど、一度もない。
間違っていると解っていようが、誰かに言われようが、
それでも、もうどうにもならないほどに、この子どもしかいらないのだ。
そんなところまで、来てしまっているのだ。
それなら、もういい。
共に生きていけばいい。
上に登りつめて、誰にも何も言わせないようにすればいい。
ただ、それだけのことなのだ。
「……ごめん」
すぐに答えなかったせいか、子どもが傷ついた声で呟く。
「…ごめん。
好きって、違うよな…。
勝手に勘違いして…何してんだろ」
傷ついた表情を笑顔で隠しながら、子どもがまた呟く。
だから、どうしてこの子どもは――
頬に触れていた手で、子どもの腕を掴み引き寄せる。
ソファの背もたれに引っかかった身体をさらに強く引き寄せ落とし、小さなその身体を抱きしめた。
腕の中で、子どもが強張る。
けれど、そんなことは気にせずに、片手で顔を上げさせ驚く金の目を捉える。
「鋼の、愛してるよ」
戸惑うように、その目が揺れる。
「勘違いじゃない、そういう意味で君が好きなんだ」
金の目が、また僅かに滲む。
「…触れて、いい?」
問うてくるその言葉に笑顔で返し、口付けを落とした。
子どもは、小さく笑った。
痛みを堪えた笑みでも諦めるような笑顔でもなく、和らぐような笑みで――
06.25
『May I touch?』=触れていい?
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