決意を込めてドアを開ければ、背を向けソファに彼は座っていた。
そして、見回りの人間と勘違いしたのか、振り向くことなく彼は言う。

「すぐに帰るから、ここはもういい」

彼の声は疲れている色を見せているというのに、それでも低く心地よくて動けなくなる。
声にすら、捕らわれる。
彼が振り向いていない今が、逃げ出す最後のチャンスなのに足は動いてはくれない。






May I touch?






逃げ出したいのか、決着をつけたいのかもう解らない。
俯き動けないままに立ち竦んでいれば、彼が振り向く気配が伝わる。

もう、逃げ出す機会は失った。


彼は何も言わない。
ただ、視線は自分を見ている、それだけは解る。

どうして、彼は何も言わないのか。
言ってはくれないのか。


ぐちゃぐちゃと、思考が混乱する。
もう、いい。
決着をつけに来たんだろ――…



ゆっくりと、顔を上げた。
まだ、何をしたいのか、伝えたいのかよく解らない。
それでも、伝えなくてはいけないことは確かにあるのだ。

痛みを伝えてくる胸を無視して、笑顔を作る。
それが自分が唯一できる防御法だから。



「…本当は、来るつもりなかったんだ」

呟いた声は小さかったが、それでも続ける。

「何もなかったことにして、忘れて――」

彼に近づきながらも、言葉を、想いを伝える。

「馬鹿みたいに笑ったり、怒ったりできるようになってから…来るつもりだった」

彼は、何も言わない。
ただ、見ている。

「…俺、何言ってるんだろ」

本当に、何を言っているのだろう。
何をやっているのだろう。
ここまで来て、纏まらぬ想いを彼に伝え、何をやっているのだろう。

情けなさと愚かさで、足が止まる。
彼の顔を見ていられなくて、俯いた。

悔しさで唇を噛み締める。
逃げ出したい。

けれど、一番大事な想いを告げていない。
それを告げない限り、何も変わらない。
だから、その言葉を言わなければ――

震え出しそうな身体も、逃げ出しそうな気持ちもとどめて、
顔を上げようとすれば、頬に暖かな感触が。

何が…?

視界には伸ばされた、彼の手が頬に触れているのを映し出している。
恐る恐る顔を上げれば、彼の真摯と合った。

怖い、と思った。
見慣れぬその表情が、怖い、と。
けれどそれを悟ったのか、彼は安心させるようにまた頬に触れた。





「鋼の、好きだよ」

彼は、何と言った?
今、何を言った?

真意を読み取ろうと見上げれば、彼は真摯な目で見つめている。

信じて、いいのだろうか。
この言葉を、信じていいのだろうか。

胸が痛む。
苦しく、痛む。
けれど、それはいつもの苦しさを伝えるだけでなかった。

何が違うのかは、解らない。
でも、それでも今は苦しいだけではない。
溢れ出る何かを押し止めるように瞬きをしたのに、何かは涙となって零れ落ちた。

それを彼が拭う。

「鋼の、好きだよ」

もう一度告げられた言葉に、涙が溢れ出す。
せめて彼に見られないようにと目を閉じても、
繰り返し伝えられる言葉と、涙を拭う彼の手を感じるたびに涙は溢れ出た。




暫くすると涙は止まったけれど、溢れ出す何かは止まってはくれない。

彼に、触れたい、と思った。
言葉では、足りないから。

けれど、彼に触れてもいいのか不安になる。
何度となく感じた、彼との距離を思い出す。
距離を考えることすら愚かという、そんな距離を。

でも、今彼に触れたい。
戸惑いながら、彼に問う。

「…て…いい?」

小さく掠れた声のせいで聞き取れなかったのか、彼は訊き返す。

「何だね?」

もう一度、声に出すのは正直怖かった。
けれど、それ以上に彼に触れたいという想いは強い。

「…触れて…いい?」


触れたい想いはあるけれど、怖いという想いもある。
恐る恐る見上げれば、彼は目を見開き何も言わない。

やはり、過ぎた願いだったのだろうか。

彼の言った言葉を思い返す。
好きだ、と彼は言った。
でも、それだけだ。

ただ、嫌ってはいない、そういう意味だったのかもしれない。
いや、きっとそうなのだろう。

何度、間違えれば気がすむのか。
何度、愚かだと思い知ればいいのか。



「……ごめん」

なんて、愚かなのだろう。

「…ごめん。
 好きって、違うよな…。
 勝手に勘違いして…何してんだろ」

勝手に傷ついた表情を見られないように笑って言えば、何故か彼のほうが傷ついた顔をして――




頬に触れられていた手で、腕を掴まれ引き寄せられる。
彼の座るソファの背もたれに引っかかったが、さらに強く引き寄せ落とされ抱きしめられる。

身体が、強張る。
どうして、今抱きしめられているのか解らない。
視界に広がる青を呆然と見つめれば、片手で顔を上げさせられる。
真摯なその瞳の中に僅かに怒りを感じ、怯えそうになった一瞬の内に彼は信じられぬ言葉を告げた。

「鋼の、愛してるよ」

彼の目が、ふっと和らぐ。

「勘違いじゃない、そういう意味で君が好きなんだ」

信じるだとか、信じないだとか、
そういうものはもう消え去り、ただただ彼の言葉が胸へと入ってくる。

「…触れて、いい?」

問えば彼は柔らかく笑み、口付けを落とした。




彼は、また笑った。
作った笑みでも痛みを堪えた笑みでもなく、和らぐような暖かな笑みで――





 
 

06.27 『May I touch?』=触れていい?
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