手の中の湯飲みから、いつの間にか温かさが消えていた。
湯飲みを見ると、飲み口からちょうど1センチの処で茶が揺れる。
「飲み口から1センチの処まで入れないと、変な感じがする」
一度だけ言った言葉だったのに、アンタはそれ以来いつもその入れ方をしてくれた。
最後の最後まで、俺の変な拘りを通してくれた。
それも、今日で終わり?
一気に茶を飲んだ。
コトリと小さな音を立てて、湯飲みを床に置く。
「ごちそうさま」
アンタは何も言わない。
視線はほおずきのまま。
静かに立って、数歩歩く。
振り返らない。
「さような…」
最後の別れを告げようとしたら、阻まれた。
「嘘だよ」
それでも、振り返らない。
振り返れない。
アンタが振り返る気配がした。
「嘘だよ」
もぅ一度告げられた言葉。
ゆっくりと振り返ると、光の加減でアンタの表情は見えなかった。
「…何が?」
「全部が」
「…何で?」
「否定されたかったから」
「何を?」
「全部を」
先ほど離れた数歩分を埋めるように、ゆっくりとアンタに近づいていく。
けれど、手を伸ばせば触れられる位置で止まった。
近づくとアンタの顔がよく見えた。
大人のくせに少しだけ泣き出しそうな、疲れきったようなそんな顔だった。
視線は先ほどと違い、ずっと俺を捕らえてはなさなかった。
手が顔に伸ばされる。
それに合わすように、顔を近づける。
頬に触れられた手は、ひんやりと冷たかった。
「…何で?」
もぅ一度訊いた。
「怖くなったから」
自分を嘲笑うように、アンタは小さく笑った。
「何が?」
「全部。
あぁ、違うか。
俺とお前の関係が、恐くなったんだよ」
「何だそれ?」
「お前が俺のすべてになりそうで恐かったんだよ。
だから、別れようと言った。
そしたら、お前に俺の領域をこれ以上侵されることはないと思った。
でも、お前に『嘘だ』と言ってほしかった。
今更そんなことしたって手遅れだと解っていたから、止めてほしかった。
けど、同じだけ、そのまま納得して欲しいとも思った。
手遅れだと解ってたのにな」
また、アンタは小さく嘲笑った。
「でも、実際に納得されたら、どうしようもなくなった。
俺はお前のことでいっぱいなのに、お前はあっさりと納得した。
それって、本当にお前は強さをくれる相手なら誰でもいいってことだろ?
それに、さっきお前自身そう言ったしな。
…俺にとってお前はすべてだったけど、お前は俺じゃなくてもかまわない。
そう思ったら、もぅ解らなくなったんだ。
否定してほしかった言葉を、全部お前は否定してくれなかった。
それなら、俺を見ないお前なんて本当にいらないと思った」
アンタの言葉に、ピクリと自分の身体が震えたのが解った。
それに気づいたアンタは、嘲笑うのではなくやさしく微笑んで俺の身体を引き寄せた。
カクンと膝をついた格好のまま抱きしめられる。
「でもな、『さよなら』って言われそうになったとき、ダメだと思ったんだ。
もぅ、とっくに手遅れだったんだよ。
解ってたはずなのにな。
俺を見ないお前でもいい。
もぅ、どうしようもないくらいに、お前はすでに俺のすべてだった。
それに、気づいたんだよ。
――ごめんね」
抱きしめられた腕に力が込められる。
「何が?」
「お前が俺から離れると言っても、もぅ俺は離すことができないから」
小さく溜息が漏れた。
「いいよ。もぅ、いい。
離れないから。
離れようとも思わないから、謝らなくていい」
もぅ一度アンタは俺に「ごめんね」と謝った。
けど、アンタは俺に謝る必要はないんだ。
アンタが別れようと言ったとき、嘘だと思う反面安心した。
アンタの俺への狂気に似た想いが、恐かった。
だから、逃げられると思った。
でも、
強さをくれるなら誰でもいいんだろ?、と言われた時にやっと解った。
強いからアンタと一緒にいたんじゃないって。
アンタだから一緒にいたんだ。
それにやっと気づいたんだ。
だから、『嘘』だと言われたとき本当は安心したんだ。
アンタから離れなくてもいいって。
アンタは俺がアンタを見ないと言うけど、それは違う。
もぅ、俺もアンタと同じなんだ。
俺のすべてがアンタなんだ。
ただ、
アンタの狂気に似た想いが恐くて、見ないふりをしていただけ。
自分も同じ狂気を孕んだ想いでアンタを想ってるなんて、気づきたくなかっただけ。
でも、もぅいい。
アンタのすべてが俺で、俺のすべてがアンタ。
ただ、それだけのこと。
2003.02.12
冒頭の言葉はお互いの言葉です。
逃れたいのに、逃れたくもない。
そんな向上しない、ただ引きずりあうだけのふたりの関係。
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