何で、と男は呆然とした顔で呟いた。 答えない僕にもう一度、何で、と呟いた。 Oath. 感情を消せ。 いつものことだろ。 何も、考えるな。 「忘れてたんだよ」 「忘れてたって…」 言葉の意味が解らないと、その顔が言う。 「忘れてたんだよ。 だから、今度こそ本当に鍵を返してよ。 データも消すから」 何も考えるな。 ただ、動け。 やるべき事だけをしろ。 伸ばした手の先、解除を告げる電子音。 振り返ると、男は呆然と僕を見ていた。 そんな男に、帰ってと告げた。 これで、終わり。 あとは早く男が出て行くことを、性懲りもなく願うだけ。 けれど、いつだって願いは叶えられない。 「…鍵を置いて帰って、って言ったんだけど」 後を追ってきた男。 振り返る僕。 考えることを放棄した。 願いも叶わない。 それならば、もう何も考えなければいい。 男は僕の腕を掴み、押し倒した。 受身も取らず背中に走った痛みさえ、どうでもいい。 「一緒にいても詰まらねぇってよ」 男が笑う。 意味が解らない言葉。 「小僧が言ってたよ」 「だから?」 意味が解った。 けれど、それに何の意味があるというのか。 一緒にいることで、面白みを期待するような関係ではなかった。 認めたくはないが、 僕はただ逃げるために彼を利用し、彼も気まぐれにそれに乗った。 そんな関係を、彼が詰まらないと言っても何もおかしいことはない。 けれどそれを知らない男は、 先ほどまでの笑みを消し、何で、と悲痛な声で呟いた。 答えを求めぬ、言葉だった。 「…お前が、解らねぇ」 ぐっとシャツを掴み上げて、男が言う。 どれくらいぶりか解らないほどに間近で見た男は、 記憶と変わらず、真っ直ぐに人を見てくる目だったが、 それも一瞬で、今度は床に叩きつけられるように手を離された。 頭を強打する音。 ボタンが引きちぎれる音。 痛みも音も、何もかもが遠くに感じる。 目を開ければ、男が僕を見ていた。 「…ヒバリ」 呟く声が何処までも悲痛で、僕は解らなくなる。 本当の願いは何だったのか。 気づくな、だとか、 帰って欲しい、だとか、 そんなことを願うはめになったそもそもの願いとは何だったのか。 思考を止めた頭の中で、無邪気に笑う男を思い出した。 目の前にいる男は、もうそんなふうに笑わない。 同じ男なのに、違う男。 ――なぁ、俺、ずっとヒバリの傍にいる? 無邪気に問うてきた男。 嘘吐き、と答えた僕。 何に対して、嘘吐き、と言ったのか。 否定しながらも、何をずっと願っていたのか。 知りたくもない答え。 認めたくもない願い。 会いたい、と思った。 この目の前で悲痛な顔をする男ではなく、あの無邪気な顔で笑う男に。 けれど同時に、二度と会いたくもない、と思うのも事実。 もうすべてが、解らなかった。 揺らぐ視界。 最近経験したそれは、何が起こるかを如実に告げる。 会いたいと思い、 同時に会いたくもないと思う男が現れる。 ついていけない現実。 それならやはり、思考を停止すればいい。 もう、何も考えるな。
07.01.12 ← Back Next(Side.H) →