ポケットに中には、ヒバリの時計。

返して、と言われて数日経つが、未だ返すことはないまま。
ヒバリもあの日以来、何も言わない。





Graduation.





…嘘だろ。

目の前の光景が、信じられない。
俺が中2で、ひとつ年上のヒバリが中3なのは知っている。
今日が3月1日で卒業式だと言う事も知っている。

でも、それでも、
壇上の上で答辞を読み上げているヒバリの姿を、信じられないモノを見るように呆然と見ていた。







何もなかったかのように、あの日以降も一緒に登下校していた。

俺たちの関係は微妙なバランスの下に成り立っていて、
深く追求すれば、崩れ去ることが互いに解っていて、何もなかったフリで過ごすことしかできない。

バレンタインの時から、何も変わらないままだ。






だから、今朝だって一緒に登校してきた。
卒業式だから朝練はなかったけれど、
いつもの時間にヒバリの家に行き、SHRが始まるまでの時間を応接室で一緒に過ごした。

時間はあった。
けれど、ヒバリは何も言わなかった。
式の練習はあったけれど、退屈なのが目に見えていてサボってばかりだった。

だから、本当に何も気づかなかった。
今日が卒業式だと解っていても、それがヒバリと全く繋がらなかった。







「ヒバリ」

応接室の扉を開ければ、執務机に向かい書類に目を通しているヒバリがいた。
何、と向けられた視線を呆然と見ながら、ゆっくりと近づく。

「卒業、すんの?」

先ほど、卒業式を終えたばかりだと言うのに、俺は未だに理解できないでいる。
ヒバリは、何を解りきったことを、と言う視線を向け溜息を吐き出しただけで、
答えてくれることなく、また書類へと視線を移した。

「…もう、来ねぇの?」

情けない声で訊いた。
迷子のような途方に暮れた声。

それに呆れたのか、絆されたのか、また視線が交差した。


「…引継ぎと整理があるから、今月いっぱいは来るよ」

苦い顔だった。
言いたくなかったと言うより、言うつもりはなかったのだろう。

それでも、教えてくれたことが嬉しい。
まだ、会えることが嬉しい。

「…よかった」

本当に、よかった。
安心したら、力が抜けた。

ここ最近考えることが多すぎて、禄に寝ていないことを思い出す。


「悪ぃ、ちょっと寝させて」

睡眠不足を思い出せば、一気に眠気が襲ってきた。
答えを聞くより先に、ソファに寝転がる。
目を閉じれば、重力に逆らえずに沈み込む感覚に捕らわれる。

このまま寝れると思ったけれど、意識が落ちてくれない。

ふわふわと思考だけが漂っている。
そのくせ、身体は指一本さえ動かない。

ただ纏まりのない思考だけが、浮かんでは消える。







考えなければいけないことは、たくさんある。
そのどれもが、軽視できないことばかり。

未だにポケットにあるヒバリの時計のこと。
ヒバリが、あの家に帰るということ。
ヒバリが、あの家で生活しているということ。
来月からの、俺とヒバリのこと。


けれど、何ひとつ答えが思いつかない。
どうすればいいか解らない。







ふいに、目の前に気配を感じた。
慣れ親しんだ、ヒバリの気配。

もう帰るのだろうか。
起きなければと思うのに、まだ身体は覚醒してくれず動いてくれない。

帰るのなら声をかけるなり、殴るなりして起こしてくれるだろう。
ヒバリは、俺を置いて先に帰らない。
それは俺が望んでいるような理由からではなく、誰よりも最後に帰るというヒバリの理由で。


だから、起こされるのを待った。
それなのに、一向にヒバリは動かない。
どうしたものか、と思っても、
俺の身体は疲れ切っていて外的要因でもない限り動いてくれそうにもない。

まだ帰らないようだしいっか、と思っていれば、
ふいに目を閉じていると言うのに、さらに目の前が翳った。
それから伝わった冷たい感触。
ヒバリの手が、俺の両目を片手で覆っていた。







「…もういい」

呟かれた声は、酷く小さい。
けれど距離が距離だから、ちゃんと聞き取れた。

ヒバリは暫く俺の目を覆っていたけれど、手を離し離れていった。
それから、またペンが走る音が聴こえてきた。

もういい、とヒバリは言った。
主語も何もなく、ただそれだけを。

でも、解ってしまった。
気づいてしまった、それが何を指すのかを。



もう、忘れていい。
もう、関わらなくていい。

俺がヒバリに踏み入ろうとしていることすべてに、
ヒバリは、もういい、と言ったのだ。



ふざけるな、と怒鳴りたいような、
自分さえも解っていないくせに、どうして解ってくれない、と詰め寄りたいような、
もうどうしていいのか解らない感情が渦巻き、その結果、泣きたくなった。

目頭が熱くなって、泣くわけにはいかないと思えば、
さっきまでまったく動かなかった身体は途端に動き出した。

慌てて目を擦る。
それから気づかれないようにゆっくりと息を吐き出して、苦笑を浮かべた。







「悪ぃ。
 安心したら、気が抜けて寝ちまった。
 まだ、ここにいるのか?」

「…帰っていいよ」

柔らかな拒絶。
そう言えば、さっきのも柔らかな拒絶だった。

拒絶には変わらないから、
それだけに強く反応したけれど、思い返せば常のヒバリらしからぬ拒絶の仕方だった。

ヒバリは嫌なことは嫌だと、キッパリと拒絶する。
それなのに、さっきヒバリは寝ていると思っていた俺に対して拒絶を表した。
直接な拒絶ではなかった。


なぁ、そこに意味はあるのか。
何かを期待していいのか。



柔らかくだろうが、拒絶されていることに変わりはないのに、
そんなことを思って、また泣きそうになった。

あぁ、涙腺が緩んでばっかりだ。



ヒバリが卒業するのがいけない。
今月は確保されても、来月からは俺を置いていくのがいけない。

高々、一歳の差が今はとてつもなく遠い。




――待ってる。
返した言葉は、本当は言ってもらいたい言葉だった。






08.03.08 Back