ヒバリが帰ったあのバレンタイン朝、
俺はいつも通りにヒバリを迎えに行き、何事もなかったかのように接した。
それが正しかったのか解らないけれど、ヒバリも何事もなかったかのように俺に接した。

何かが変わるかもしれないと思ったけれど、
実際は何も変わらず、それどころか、あの夜がなかったように思えたりもした。

けど、それでも、渡せないままの時計がポケットにある限り、あの夜は本当にあったんだ。





Wristwatch.





「…嘘だろ?」

「嘘じゃねぇって、もう学校中広まってるぜ?
 何人も見たヤツいるらしいし」

誰がやったんだろうな、と興奮するクラスメイトを押しのけて教室を飛び出した。
呼び止める声なんて関係ない。
ただ、早く、早く、と駆け出す。

今日は、一緒に登校しなかった。
迎えに行っても、ヒバリはいなかったから。
基本的に毎朝同じ時間に家を出るヒバリだけど、
時折、仕事でもあるのか、それよりも早い時間に家を出ることがある。
だから、気にしなかった。

ひとりで学校に向かい、
SHRギリギリまで朝練をこなして教室に滑り込んでから聞かされた信じられない噂。


――あのヒバリが、誰かに顔を殴られたらしい。





ヒバリは、強い。
そこらへんの大人が束になっても、敵わないと思うほどに。

それに、昨日も送って帰った。
その時には何もなかったし、ヒバリの家も相変わらず電気が点いていなかった。
いつ、誰に殴られると言うのか。

そう思うのに、嫌な予感は拭えない。







「ヒバリ」

応接室の扉を開ければ、ヒバリはぼんやりと外を見ていた目を俺に向けてきた。
その顔には、噂に違わず殴られた痕が。

「ヒバリ」

呻くように呟いた。

「予鈴、なったよ」

俺の気持ちなど意に介さないように、ヒバリは言った。


「そんなこと、どうでもいい。
 お前だってここにいるじゃねぇか。
 それより、誰に殴られた?」

怒りと不安と焦りとがない交ぜになった感情が、止め処なく押し寄せてくる。

殴られた痕が、キレイすぎる。
抵抗した跡なんて何処にもなく、ただ頬だけが痛ましげに赤く腫れている。




「君には、関係ない」

切り捨てるように、ヒバリは言った。
関係ないって何だよ、って言いたいけど、
言ったところで、その意味を、ヒバリは理解してくれない。
俺の気持ちなんて、ヒバリは解ってくれないことを知っている。
怒るのも不安になるのも、俺ばかり。
それが、哀しい。

「ヒバリ」

頼むから、と続ける声は、酷く情けないものだった。
けれどそれに呆れたのか、ヒバリは何でもないことのように、
それでいて、視線を合わそうとせず、ぼんやりと校庭を見ながら呟いた。

「…強欲がね、珍しく帰ってきてたんだよ」

「え?」

言われた意味が解らなかった。


強欲、つまり、父親が家に帰ってきた。
それだけで、ヒバリを殴るとは思えない。

そもそも、ヒバリが嫌悪しているその相手と進んで時間を共有するとは思えないし、
想像でしかないが、金儲けと女にしか興味ない人間が、ヒバリに暴力的な意味で勝てるとは思えない。

けれど、それならどうしてヒバリは殴られた?
それも恐らく、抵抗することなく。





「…黙って殴られたのか?」

自分で言って、有り得ないと思った。
それなのに、ヒバリは振り返り小さく笑った。

「染み付いてしまってるんだよ。
 もう小さな子どもじゃない。
 今の僕が殴れば、相手は惨めにのたうちまわるって解ってる。
 それでも、脳は昔の記憶を忘れない」

忘れないんだ、と消え入るような声でヒバリが言った。


言葉が、何ひとつ出てこない。
抱きしめたいと思うのに、足どころか指一本さえも動いてくれない。
ただ、呆然と聞かされた事実を反芻しながらヒバリを見る。

そんな俺を見て、ヒバリが笑った。
俯いたままの状態では、それが嘲笑なのか自嘲なのか解らない。
それでも、次の瞬間上げられた顔には何の表情も浮かんではいない。






「時計、返して」

伸ばされた手。

「まだ、持ってるよね?
 だったら、返して」

あれから2週間は経っているのに、今更どうしてそんなことを言うのか。
そう思って、やっと思い至る。


「時計、してなかったからか?
 それを見咎められて、殴られたのか?」

「返して」

ヒバリは、肯定しない。
けれど、否定もしない。

「父親から貰ったものだったのか?」

「返して」

変わらず、
肯定も否定もされなかったけれど、それは正しく答えだったのだろう。









悔しかった。
何もできない自分に対してか、
黙って殴られていたヒバリに対してか解らないままに、ただ悔しかった。

ポケットの中を、ぎゅっと握った。
あれ以来、ずっと入れていた時計。
渡すつもりもあり、渡すつもりがなかった時計。

でも、今ハッキリと決心した。

こんな時計、渡せない。
絶対に、渡せない。



伸ばされていた手をひいて、そのまま机越しに抱きしめる。
ヒバリは抵抗するでもなく、ただ繰り返し、返して、と言った。

睫毛が触れるほど間近に黒い目を覗き込みながら、
絶対に、返さない、と言えば、
小さく瞬いて、返して、と力なくヒバリが言った。



ヒバリが何よりも大切だと思って以来、自分の無力さばかりを思い知る。
それがどうしようもなく、苦しくて辛い。






08.02.22. Back