子供は一通り喋って疲れたのか、隣で今はグッスリと眠っている。
帰らないで、とでも言いたげに、僕の服の裾をしっかりと握ったまま。











Daybreak.












「少し、話をしようか」

男が紅茶を淹れなおし言うから、頷いた。

「言いたくないなら、そう言ってくれればいい。
 言える範囲内で答えてくれればいいから」

重ねられた言葉に安堵し、もう一度頷く。

「まず、武が離さねぇから、
 今日は泊まっていってもらおうと思ってるんだが、家に連絡してもいいか?」

「連絡しないで」

世間体を気にするあの人は、こんなことが他人に知れたと解れば余計に騒ぐだけ。

「…それは、明日の朝にも連絡しないで欲しいってことか?」

「そう。
 何もなかったようにして。
 大丈夫、あの人は僕に関心がないから、
 僕がちゃんと学校に行っていい成績とって、
 近所の人たちに不信がらせなければそれだけでいいと思ってる。
 だから、連絡しなくてもあの人は騒ぎ立てないよ。
 …それに、そもそも僕がいないことにもきっと気づかない」

「そうか」

重々しく、男が頷く。

「それとね、僕はもう帰るよ」

「帰るって、家に入れるのか?」

当然のように男が訊いてくる。

「入れるよ」

家に、ではなく、敷地内に、でしかないけれど。
そんなことは気づかせないように答えても、
男は何か解ったらしく首を横に振った。

「…まぁ、今日は泊まっていけよ。
 冗談じゃなく、離さないだろうからな」

苦笑しながら、僕の服を握る子供を見つめから、
僕も一緒になって隣に眠る子供を見つめる。
 
「人懐っこい子だね」

「そうだな。
 でも、ここまで誰かに懐くことはなかったんだけどな。
 ま、それに免じて、今日は泊まってけよ」

決定な、と男が笑った。




「悪いんだけど、もう少し話してもいいか?」

「何?」

「まず、名前」

先ほどのことを思えば、不自然に思うだろう。

「ヒバリでいいよ。
 名前、嫌いなんだ」

それだけ言うと、解った、とだけ男は言った。


自分の名前が嫌い。

父親と愛人の名前を混ぜた名前で、
それ故に、母親――あの人が余計に僕を疎ましく思っているから。

それもそうだろう、
必死になって父親を繋ぎ止めようと僕を生んだのに、
勝手にそんな名前を役所に提出されれば、誰だって怒り狂う。

今日を含め、
数回目の激しい暴力は、その愛人の元に父親がいると解った日に起こる。


あの人以上に、家に帰ることなどない父親だけど、
それは仕事が本当に忙しいせいというのがほとんどらしいが、
たまに愛人の元に行くらしく、それが解った日は、あの人の暴力を振るうというか癇癪を起こす。

父親の財産に頼るワケでもなく、
自分も別で仕事に成功しているのだから、
さっさと愛想をつかせれいいと思うけれど、
そうはいかないのが大人と言うものなのだろうか。





「他には?」

訊くことはないの、と尋ねる。

「メシ、ちゃんと食ってるか?」

そんなに健康状態を心配されるほど細いワケではないと思うけれど。

「食べてるよ」

「作ってくれるのか?」

あぁ、訊きたいのはそっちか。

「朝はトーストだし、
 昼は給食、夜は適当に。
 お金は十分過ぎるほどに渡されているしね。
 そもそも、小学校に入るまではお手伝いさんに来てもらってたけど、
 入ってからは断ってもらったのは僕の意思だから気にしないでいいよ」

もういらない、とあの人に言えば、
翌日からお手伝いさんは掃除だけをするようになっていた。
その分、テーブルの上には金銭感覚が狂ったような札束が時折置かれていた。





「じゃあ、これから一緒にメシ食わないか?」

「何それ、同情?
 だったら、いらないよ」

食事くらいひとりで食べれる。

「同情って言うか、料理人としての意地?
 世の中にはな、美味いモノが五万とあるんだ。
 それなのに、代わり映えのない買ったモノばっか食っててどうする。
 その分、美味いメシを食う機会を逃してんだぞ、勿体無い」

裏もなく、
本気で勿体無いと力説する男に、僕は笑ってしまった。

「食べることが好きなんだね」

「嫌いなのか?」

「好きとか嫌いとか考えたことはないね」

必要かそうでないか、ってことくらいは考えたかもしれないけれど。

「だったら、なおさらだ。
 朝も夜もうちで食べればいい。
 夜は店をやってるから、早く食べることになるけどな。
 それでもいいか?」

今までの強気が嘘のように、少しだけ弱気になる男。

「その気持ちだけでいいよ。
 食事にも気をつけるようにするから大丈夫。
 ここに入り浸って、
 ご近所に変に噂を立てられたらあの人は黙ってないし迷惑をかけるしね」

ありがとう、と笑えば、
大丈夫だ、と男が笑った。

「幸いにして、うちの息子はヒバリちゃんを気に入っている。
 面倒見のいいヒバリちゃんが、
 離れたくない、と言ううちの息子の気持ちに答えてくれてるって周りは解釈するさ。
 そしたら、お前の母さんも鼻高々、くらいは思っても、
 嫌に思うことはないだろうぜ」

そんなにうまく行くはずがない、とか、
あの人が鼻高々って有得ない、とか思うけれど、
それでも男の言葉が嬉しいのも本当で。

「じゃあ、
 朝は時間的に無理だから遠慮するけど、夜はここにお邪魔させてもらうよ。
 その代わり、保育園に迎えに行くよ」

それぐらいはさせてもらう。

「何時に迎えに行けばいいの?」

それに対して、笑って答えてくれた時間は、
僕にとっても都合のいい時間。

「それなら、学校帰りに迎えに行くよ」

場所は、
以前見た保育園の制服からして、学校の近くだと知っている。

「じゃあ、お願いするな」

ニッコリと笑った男は、
優しさに溢れていて、父親ってこんな人を言うのだろうと思った。


先のことなんて解らないし、
上手くいくなんて思ってもいないけれど、
それでも、今だけは何もかも上手く行くように思ったんだ。






08.09.16〜09.07.13 Back