「へぇー、本当に変ったんだな。 相変わらず、キレイなツラしてるけどな」 そう言って入ってきたのは、元校医。 白衣は着ていなかったけれど、無精ひげとやる気のなさは変っていなかった。 Blue rose. 「何しに来たの?」 「届け物を渡しに。 山本の許可は取ってるぞ」 「だろうね」 そんなこと、言われなくても解ってる。 広い屋敷のくせに、使用人は誰もいない。 セキュリティーシステムだけが、無駄に最新の家。 解除できるのは男だけ。 解除の方法を教えようとする男に、僕は必要ないと断ったから。 ここから、出るつもりなんてない。 何もする気など、ないのだから。 「ほらよ」 そう言って、見せられる薔薇の花束。 「ディーノ?」 数日前に、薔薇の花束をあげようか、と皮肉った男。 本当にくれるとは、思わなかったけれど。 「山本からかもしれねぇぞ? 帰ってねぇんだろ」 元校医が言うように、男は数日帰って来ていない。 何をしているのかを聞いたかもしれないし、聞いていないのかもしれない。 それでも、元校医の問いに自信を持って答えられる下らなさ。 「彼なら、僕に直接渡すね」 言い切れば、元校医は苦笑した。 「凄い自信だな」 無駄な自信だよ、 とは、声には出さず、ただ笑ってやった。 「ほらよ」 軽く放り投げられた花束を受け取る。 むせ返るほどの薔薇の匂い。 それなのに、色は僕には伝わらない。 僕の目には、少し濃い目の灰色が映るだけ。 だから、この薔薇は赤でも白でもない。 僕に見える赤の定義は、曖昧だ。 赤と一言に言っても、見える赤と見えない赤がある。 その範囲は未だによく解らないし、はっきりしていないらしい。 赤信号が正しく見える時もあれば、 他のモノと変らず、明暗だけの世界の中、濃い灰色に見える時もあった。 そんな定義の曖昧な赤でも、唯一変らず色彩を伝えるのは鮮血の赤。 それだけは、ずっと変らない。 薔薇をやると言ったあの男が僕に薔薇を寄越すのなら、そんな赤だと思った。 それなのに、この薔薇は僕に色を伝えない。 「赤じゃないんだ」 呟けば、元校医が笑う。 「赤は、昔のお前の色だとよ。 だから、今のお前にはその色なんだってよ」 その色、と言われても、僕には解らない。 あの男はどんな色を僕に与えたのか。 「…何色だと思ったんだろうね」 呟けば、元校医の目が鋭く光った。 「…お前、何って言った?」 視線と同様に、鋭い声。 あぁ、この人は知らなかったんだ。 何となく男は他の誰に言わなくても、 この人には言った気がしていたんだけど、それは違ったらしい。 それもそうか。 知っていたら、最初から僕の目を診ようとしただろうに。 そう言えば、男の真意を知らない。 僕の目の異常を知りつつ、治そうとしない。 それは僕が、望んでないことを知っているからか。 「何でもないよ」 そう言っても、当たり前だが信じない元校医。 「ヒバリっ」 怒鳴られて怖がるような可愛げのある性格じゃないと、 知らないワケでもないだろうに。 答えない僕に、元校医は諦めたように溜息を吐いた。 「その色、何色か解るか?」 静かに訊かれても、解るはずがない。 じっと目を見返してやれば、珍しく痛ましげな目で見てくる。 それでも何も言わない僕に焦れたのか、 元校医は強引に僕の顎を捕らえ、上に向けた。 覗き込まれる目。 映るのは、滅多に見せない真剣な医者としての目。 「眼球に、異常はねぇな。 …精神的なものか」 呟かれた元校医の言葉と同時に、ダンっと扉のあたりで響く音。 視線の先に、男がいた。 不機嫌と言うより、怒りを滲ませて。 「なぁ。 前回と言い、これってどんなパターンだよ。 流石に、俺も嫌になってくるんだけど?」 「あ? 何言ってんだ、お前」 元校医が解らないらしく、眉間に皺を寄せる。 「その手を離せ、って言ってんだよ」 言いながら、 僕と元校医との間に何かを投げつけられる。 僕の手に納まったそれは――薔薇。 僕の目の異常を知っているのに、 僕が視覚できる、赤でも白でもない薔薇。 あの男がくれた薔薇よりも、薄い灰色の薔薇。 「君も、薔薇なんだ」 「…っお前」 呟く僕の声が、元校医の驚いた声と重なった。 「これ、どうしたんだよ」 「ヒバリにやるために手に入れたんだよ。 この前ディーノが、ヒバリに薔薇をやるって言ったからな。 ディーノが持ってくる前に、間に合わせたんだよ」 憮然と言い放ちながら近寄る男に、元校医は飽きれた声を出す。 「だからすぐ、ディーノに此処に来る許可出さなかったのかよ。 おかげで急に仕事が入ったアイツの変わりに、俺が来る破目になったんだぜ。 面倒くせぇったらないぜ。 それにしても、お前、いくらなんでもそれを持ってくるか」 「本当はアンタが来る前に手配できるはずだったんだけど、手違いがあって遅れたんだよ。 でも、間に合ってよかったぜ」 まぁ、ある意味、間に合ってなかったみたいだけど?、と男が笑う。 そんな男を無視して、僕は問う。 「これ、何色?」 「その前に、そっちのの薔薇の色は解ったか?」 「解ると思うの?」 僕の目を知っているくせに、何を言うのか。 「いや、訊いてみただけ。 知りたいか?」 「今の僕に似合う色らしいからね」 そう告げると、男は考えるようにあの男の薔薇を見た。 「誇りに気品、か」 クッと喉で笑う男。 「何?」 「高貴な色紫を纏った、薔薇の花言葉だよ」 何故、男がそんなことを詳しく知っているのか、疑問に思わないでもない。 でもそれより、誇りに気品という花言葉を持つ紫の薔薇。 あの男のことだ。 恐らく色だけではなく、花言葉まで考えて僕に寄越したに違いない。 まったく、何て今の僕から程遠い花言葉なのか。 あぁ、違うか。 だからこそ、か。 取り戻せ、とでも言いたかったのだろうか。 「君がくれた薔薇は?」 「ヒバリに似合う色だよ」 笑う男の横で、元校医が舌打ちをした。 「何?」 「別に。 どうせ、お前、色解ってないんだろ?」 「すべてが解らないワケじゃない」 見える色はある。 「そうかよ。 治したいと、思わないのか?」 医者としての目が、僕を見る。 「思った瞬間にでも、すぐに治るんじゃない?」 解ってるだろ?、と言えば、元校医は深く溜息を吐き出した。 それから、男を振り仰ぐ。 「原因は、知ってるのか?」 「知らねぇよ」 「治す気は?」 「ヒバリ次第だろ?」 そう答え、男は笑った。 酷薄な笑みにも、自嘲にも見える笑みで。 「何で、その色なんだよ?」 「さぁ? ただ、ヒバリにやるなら、これが一番だと思ったんだ」 男は薄灰色にしか見えないバラを、苦笑交じりに眺める。 「僕が、その色を理解しないとしても?」 「だから、かもな」 口を挟めば、解らぬ言葉で男が答える。 「なぁ、お前はコイツの目が治って欲しくないのか?」 「…それが解ってたら、苦労しねぇよ」 なぁ、ヒバリ?、と笑う男を僕は無視した。 「高嶺の花、なんだ」 男が僕の髪をくしゃりと撫ぜ、元校医に笑いかける。 男の行為に僕が何も言わないのを驚きながらも、元校医は訊いた。 「だから、アレか」 元校医は、男の薔薇を見やる。 「そ。どうこう手出しできねぇってワケ。 俺はさ、結局、何もできねぇんだよ」 そこに自分の意思の介在など意味がない、と男が笑う。 それを受けて、元校医は眉間に皺を寄せる。 「でも、アレはこの世に存在してる。 不可能、と言われてたのにな」 「それでも、完全じゃねぇだろ? 紛い物でしかねぇよ。 どんなに手を尽くして近づけることができたとしても、 不可能なモノってのはあるんだよ」 だから、思い知らされた、と男が小さく呟いた。 そんな男を元校医は痛ましげに見た後、深い溜息だけ残して出て行った。 不可能。 そして、薔薇。 それらが指し示すのは、青い薔薇。 僕に、似合う色だと言った。 それを高嶺の花だと言い、 手出しできないモノだと言いながらも、寄越したそれを紛い物とも言った。 不可能と言われる青い薔薇は、 長い年月をかけ、さまざまな手を加えられ、この世に生み出された。 けれど、それを男は青い薔薇だとは認めない。 それなのに、そんな花を僕に寄越した。 男にとって、僕とは何なのか。 男は僕に、何が言いたかったのか。 輪郭でしかその想いを捉えることができず、僕は男に訊いた。 ――君にとって、僕は何? 男は苦笑し、今度本物の青い薔薇を持ってくる、と言った。 不可能だと言ったその口で、答えにならぬ嘘を吐く。 男の想いを知ることは、二度とないと悟った。 「嘘吐き」 「嘘じゃねぇよ。 どんなに足掻いても青い薔薇なんて不可能な存在だけど、 ヒバリがそれを青だと言えば、俺にとっても青い薔薇になるんだよ」 男は、更に答えにならぬ答えをくれた。 結局、僕は男の言うことなど解らず、 正直に、解らない、と言えば、俺も解らない、と男は苦笑した。 その苦笑を見ていられなくて、 薄い灰色としか映らない薔薇を握り締めれば、 男は、俺は何もできない、と更に呟いた。 どんなに時間をかけて手を尽くしても、 男にとって真実、青い薔薇など存在しない。 けれど、僕がそれを青いと認めれば、男も認めると言う。 他人がどうこう手出しをしても無駄で、 結局は、僕自身がどうにかしないといけないとでも言いたいのだろうか。 それが男の言いたいことなのかそうでないのか、 そもそも、男が言った言葉に意味があったかすら僕には解らず、 ただもう一度、嘘吐き、と繰り返せば、もう男は何も言わなかった。
06.07.05〜09.14 ← Back