「変ったね」 数年ぶりにあった男は、昔と変らず甘い顔で笑った。 The wreck of beautiful beast. 「久しぶりに会った第一声がそれ?」 男は扉から入って僕を見るなり、変った、と言った。 「そう。 あまりの変りように、挨拶すらできなかったよ」 困ったように笑う男。 その姿は、昔と変らない。 けれど、すぐに変化は見せ付けられた。 無礼にもベッドに座ったまま、 窓枠に肘をついてもたれている僕のところまでたどり着く数メートル。 男は躓くことも、こけることもなかった。 部下は扉の外に控えていて、見えないという状況なのに。 「あなたは、変ったね」 男は言われた意味が一瞬解らなかったようだが、すぐに苦笑した。 「あれから何年経ったと思ってるんだ。 流石に、俺も一人前になるさ」 「そう」 ただそれだけ言ったのに、男は哀しそうな顔をした。 「本当に変ったんだな」 「あれから何年経ったと思ってるのさ?」 男と同じ言葉を返せば、男は表情を消して僕を見据えてくる。 「屍の上に立っているほうが似合う、って言ったんだろ?」 誰に聞いたか知らないけど、 僕自身でさえも忘れていたことを言う。 「…何それ、忘れたよ」 「それ聞いた時、お前にぴったりだと思ったんだけどな。 ――屋上での修行、覚えてるか?」 「覚えてない」 「あんなに、楽しそうだったのに?」 「覚えてないって、僕は言ってるんだけど?」 「あの中じゃ、誰よりもこの世界に合ってると思ったんだけどな」 そんなこと、言われるまでもない。 僕だって、そんなことは解っていた。 けれど、それ以上に見たくなかったものがある。 それなのに僕は今、見たくなかった彼の姿をほぼ毎日見ている。 八つ当たりのように睨み上げた僕に、男はふっと目元を緩めて笑った。 「麗しき野生の獣が、今は深窓の令嬢か。 薔薇でも差し上げようか?」 挑発するような言葉なのに、 態度は聞き分けのない子どもを宥めるかのよう。 だから、僕は笑ってやる。 「深窓の令嬢? 単に、男に囲われてるだけだけど? それでも薔薇をくれるって言うのなら、貰ってあげてもいいよ?」 僕の言葉に、男は目を見開く。 「何、その顔? 聞かなかった? 僕は、守ればいい、とあいつに言ったんだ」 男は目を更に見開き、信じられないモノでも見たように僕を見つめた。 けれどそれも一瞬で、 ゆっくりと強張った身体を緩めるように静かに息を吐き出して、僕に手を伸ばした。 「そんな顔するくらいなら言うなよ」 伸ばされた手が、僕の頬に触れた。 「どんな顔してるって言うのさ?」 「泣きそうな顔」 「何それ、そんな顔知らないよ」 泣くって何? 僕が? 有り得なさ過ぎて、笑えるんだけど。 「ほら、また」 頬に触れていた手が、宥めるように労わるように撫ぜられる。 「何してんだ?」 突然の声に扉を見やれば、家主である男が不機嫌をあらわに立っていた。 「何って…何だろうね?」 苦笑しながら、そんなこと僕に聞かないでほしい。 「俺はヒバリに会うことは許可したけど、触れていいとは言わなかったよな?」 睨みつけてくる彼を気にもせず、目の前の男は苦笑を深める。 「…あぁ、お前も変ったんだっけ?」 ぽつりと零された言葉に、耳ざとく聞き取った彼は眉間に皺を寄せる。 「何?」 「別に何でもないよ。 お前、恭弥をどうするつもりだよ?」 「アンタには、関係ない」 強く言い切って僕と男の前に割り込んだ彼に、男は苦笑するしかなかった。 それから彼の肩越しに顔を出し、またな、と言って出て行った。 「何してたんだよ?」 僕の目線に合わせるように膝を折って問う男からは、未だに不機嫌さが伺える。 「何も」 「何も?」 納得がいかないとでも言うように、眉間に皺が寄った。 「あぁ、深窓の令嬢って言われたよ」 「…それで?」 「ただ、囲われてるだけ、とちゃんと訂正しておいたよ」 ぎゅっと、彼の唇が悔しそうに噛み締められる。 彼が何に対して、悔しいと思うのかは僕には解らないけれど。 「何で、そんなことを…」 呟かれた言葉に、僕自身も答えを持たない。 囲われている、と訂正したところで、それも真実ではないのだから。 彼は、僕に時折しか触れない。 それも、性的だとは思えないような触れ方しかしない。 それなのに触れた後、後悔したような顔をする。 そんな関係を、囲っているとは言わない。 それこそ先ほど男が言ったように、 深窓の令嬢、と言ったほうがまだ適切かもしれない。 「ねぇ、疲れたんだけど」 彼との沈黙は、嫌いじゃなかった。 けれど、それは昔のこと。 今は、その重さに耐えられない。 だから、出て行ってくれと言外に告げれば、 彼は数瞬迷ったようだけど、それでも立ち上がった。 そのまま扉へと向かってくれればいいのに、 時折見せる真剣な目で僕をじっと見据えてきた。 「何で、訂正したんだ?」 答えない僕に、また彼が問う。 「ヒバリは、囲われたいのかよ」 意味を解って言っているのか、とその目が問う。 けれど、僕こそ訊きたい。 何故、僕をイタリアにまで連れてきたのかと。 それでも射抜くような彼の真剣な目に対峙する僕の目は、 きっと感情を映さない冷めた目をしている。 「君が連れてきたんだよ」 そんなことをされた相手を、深窓の令嬢だなんて言わない。 問いに対する答えではない答え。 ただ、言葉の意味を言っただけの答え。 それでも、感情が支配している彼は気づかない。 憤りをぶつけてくる視線に、 感情を浮かべず見つめ返す僕に、彼は諦めたように出て行った。 気づかれることなく張り詰めていた緊張を解くように、 ゆっくりとシーツに沈み込んだ。 囲われたいのか、と言われた言葉が、静かに僕を侵食する。 何故、彼が僕を連れてきたのか解らない。 解るのは、 深窓の令嬢のように扱いたいのでも、囲いたいのでもないらしいということ。 傍にいて欲しい、僕がいいのだ、だから連れて行く、 と、彼は僕に言った。 その意味が、未だに解らないままでいる。 そんな僕の胸のうちに彼が気づいたら、 嘘吐き、と言われそうなことを、僕はまだそれが真実だと思い込んでいたいらしい。 イタリアに来て1ヶ月。 囲われているくせにその役割を果たさぬまま、 深窓の令嬢のような扱いを嫌がるでもなく、ただ静かに受け入れている。
06.06.26〜07.02 ← Back