「美味いか?」

男は笑って僕に訊く。





mementomori.

でき得る限り、男は3食僕と一緒に取ろうとする。 それは連れてこられた時からだったけれど、 別の意味を持つようになったのはディーノの件があってから。 青い薔薇を作ることを急かすように研究所に数日泊り込んでいた男は、 帰ってきて冷蔵庫を開け、止まった。 「…減ってない」 呻くように小さく呟かれた言葉。 返事を求めたようではなかったので、動かない男の背中をぼんやり見ていた。 「…俺、食っていいっていったよな。  冷蔵庫も冷凍庫の中のも全部」 振り返り、今度こそ答えを求めるように訊くから頷いた。 冷蔵庫の中にも冷凍庫の中にも、男が作り置きしていった料理があることは知っていた。 何度も冷蔵庫は開けたのだ。 「…4日も出てたんだぞ。  何で、何も減ってないんだよ?」 何処か恐ろしそうに訊く男。 「水」 端的に答えれば、男は理解できなかったようで眉間に皺を寄せる。 だから、言葉を付け足す。 「減ってるだろ?」 水は飲んでいたのだ。 あと氷も少し頂いたけれど、 言っても意味がないだろうと思い、それを言うのは止めた。 「…4日間、水だけか?」 問われたので頷く。 「…何で?」 何で、と言われても。 「食べたくなかったから」 理由なんて、そんなものだ。 別に何をするでもなく家にいるのだ。 ただまどろみの中に生きている。 消費するカロリーなどたかが知れていて、身体はそれを欲しなかった。 僅かに空腹を感じる時もあったが、 暖めたり、咀嚼することを思えば面倒だと思ったから止めた。 「…俺の作るモノ、不味い?」 「別に」 不味いとか、不味くないとかそれ以前の問題。 時折、感じるほんの僅かな違和感。 それを目の当たりにするのが、怖いのかもしれない。 「…俺がいる時は、3食でも食ってたよな?  俺といたら食う?」 先ほどから、何処かズレた会話をしてる気がした。 それでも、問うてくる男は何処までも真剣。 少しだけ考えて、頷く。 ひとりだと、よほどの空腹を感じない限り食べないことは確か。 けれど、男がいれば違うだろう。 料理を作り、テーブルにセットし、それから僕を呼ぶ。 そこまでされれば、席につくくらいはするし、 量的には僅かしか食べれなくとも、ひとりの時よりそれを厭うことはないだろう。 「…そっか」 解った、と頷いたその日から、 男は本当にでき得る限り、昼も夜も毎日帰ってくるようになった。 それまでも、2日と開けることなく帰ってきてはいたけれど、 今は、毎日3食を共にしようと努力している。 忙しくないワケでもないだろうに。 食事の後、また仕事に出て行くこともザラで、なんて無駄なことをしているのだろうかと思う。 「前から言っているけど、  1日、2日、何も食べなかったからといって、死なないよ」 だから、毎回帰ってこなくていい、と言外に告げる。 「死なないかもしれないけれど、少しでも食べたほうがいいだろ?」 だから、帰ることを止めない、と言外に笑って返される。 何を言っても無駄なのだ。 きっと、男は無駄なことが好きなのだ。 どうせ、その無駄も数日後には終わるけれど。 「毒蠍、次はいつ来るって?」 早く、その日がくればいい。 いくら好きだといっても、無駄は無駄でしかないのだ。 「…なんで?」 一瞬、温度が下がった気がした。 顔を上げ、男を見る。 笑った顔はいつもと変わらないくせに、雰囲気が冷たく感じる。 何かを、感づかれたのだろうか。 「猫を、くれるんだって」 「猫?」 あまりに意外なことだったのか、男は間抜け面になる。 雰囲気も元に戻る。 「そう」 「ふーん。  じゃ、ペット用品買っておかないとな」 何も知らない男が、楽しそうに笑う。 暫く見ていなかった笑顔だと、ふいに思った。 「…ヒバリ?」 「何でもないよ。適当に任せる」 応えれば、なおも嬉しそうに男が笑う。 猫じゃらしあるかな、とか言う男に適当に頷きながら、 僕は、それが必要がないことを知っている。 猫が来る日は、僕がいなくなる日でもあるのだから。 「あぁ、忘れるとこだった」 散々、猫用品について語った後で、男が言う。 「何?」 訊いて、訊かなければよかったと後悔した。 「美味かった?」 話を逸らせたと思ったのに、無理だったらしい。 男は、毎回、毎回、美味しかった?、と訊いてくる。 数日間食べていなかったことが、 人事なのによっぽど堪えたらしく、あれ以来毎回訊いてくる。 僕は、それが酷く嫌なのだ。 聞きたくない。 けれど、それを言えるワケもなく、 ただ、毎回、毎回、訊かれただけ頷くことで答える。 それで、男は安心したように笑う。 そして僕は、 訊かれるのが嫌なのと同じだけ、その笑顔さも同じだけ見るのが嫌なのだ。 見たくなくて、目の前の食事に集中する。 ナイフで肉を小さく切り、口に運ぶ。 広がる味は、 肉の旨みでもなければ、男が特性だと言ったオレンジソースの味でもない。 何も、感じない。 感じられないのだ。 いつから、と明確に解らぬほど緩やかに、 けれど確実に、気が付いた時にはもう遅く、 視覚の異常だけでなく、味覚にも異常が来ていた。 咀嚼しても、味が解らない。 口の中で咀嚼するたびに、グチャグチャと形態を変えていくのだけ感じる。 だから、視覚に異常がある僕に気を利かせて、 どんなに男がテーブルセッティングに拘ろうと、関係ないのだ。 見た目の問題なら、男がカバーしてくれただろう。 灰色の世界の中ででも、食欲をそそるようにいつだって拘っているのが解る。 けど、だめなのだ。 もう遅い。 味覚はどうしようもない。 何も、食べる気などしない。 だから、無駄なのだ。 もう、努力をしなくていい。 僕を、捨てればいい。 言いたいのに、言えない言葉。 このまま行けば、言葉までも失ってしまいそうだ。 視覚異常に味覚異常。 痛みにすら鈍くなっていて、これではまるで―― 消極的自殺。 もしくは、緩慢なる死を待っている。 そんな鼻で笑ってしまうような言葉が思い浮かんだけれど、 完全に違うとも言い切れず、 ただ、男に知られてはならないと思うばかりで、早く毒蠍が来ればいいと、強く思った。
08.09.02 Back