気がついたら、執務室の椅子に座っていた。 目の前の机にあるのは、 一週間前に草壁に渡したままだった携帯と財布。 それから、一枚のメモ書き。 ア イ ラ イ ロ 携帯のディスプレイには、 やはりあの時から一週間の時間の経過を示していて、 本当にあれが5年後かどうかは解らないけれど、 それでも、確かに一瞬で日本とイタリアを移動したことから、 時空を超えたことだけは解った。 メモに手を伸ばそうとして、扉がノックされる。 入るように促せば、草壁が入ってきた。 静かにお茶を机の上に置き、出て行こうとするから呼びとめる。 「一週間前、僕と別れてから今までを端的に話せ」 草壁は一瞬、ワケが解らないとでも言うように眼を瞬かせたが、 それでもすぐに短い返事とともに端的に教えてくれた。 曰く、 別れてすぐに、公衆電話から僕の指示を受けた。 内容は、自分は単独行動をするから、 草壁は直ぐに以前から話を進めていたマチュピチュに行くこと。 また期限は一週間で、それでもダメなら帰ってきていいこと。 そして、指定した便で帰ってきたら、 更に指定した時間――つまり、今、僕の執務室にお茶を持ってくること。 僕は、そんな電話をした覚えはない。 だけど、僕の声を草壁が間違うはずは有り得ない。 言えることは、 未来のかどうかは知らないが、確かに僕ではない僕がここにいたのだろう。 「…他の者に指示は?」 「メールでしておられたようです。 報告書もメールでするようにと仰られたようで、 パソコンの中に入ってるかと」 「…そう」 赤ん坊は、アレを5年後の僕からの誕生日プレゼントだと言った。 仕事までして、何がしたかったのか…。 あぁ、違うな。 したかったんじゃない。 彼は、言いたかったんだ。 欲しいなら、足掻いても手に入れろ、と。 「ねぇ、跳ね馬に変わったことはない?」 聞けば、奇妙な顔をされた。 まぁ、当然と言える。 ディーノの僕への感情は僕や彼の部下はほとんど知っているし、 加えて、僕がディーノにそんな感情を持っていないことも知っている。 戦ってくれるために、いつ来るのか、と問うことはあっても、 近況を気にすることはなかった。 それでも、 やはり草壁はすぐに表情を消し、答えてくれた。 「いえ、特には何も」 「そう。 それならいいよ。 もう下がって」 静かに出て言った草壁を見届け、出されたお茶を飲む。 ほぅと一息吐いて、ゆっくりと思考を巡らす。 半年前、ディーノに見合い話が出ていた。 それを草壁が言わなかったと言うことは、 少なくとも大々的にはなってない。 ロマーリオは、 ディーノの幸せ――つまり、僕とどうにかなって欲しいと思っていたし、 草壁とも妙に仲が良かったから、何かあれば教えたはずだ。 それに万一教えなかったとしても、 そういった方面の情報に興味がない僕と違って、 草壁はどんな些細な情報でさえも拾うから、 ディーノは見合いをしたとしても、婚約までには至っていないはず。 それに、安心した。 ディーノは優しい。 婚約して、それを大々的に発表したら、 どんなことがあっても、相手を傷つけるからと破棄することはないだろう。 まして、結婚して子供までできたら…。 そこまで、考えて思考が止まった。 赤ん坊曰く、 5年後のイタリアで、 ディーノの見合い相手とされていた女は孕んでいた。 アレは、誰の子供だ。 最後に、ディーノは何と言った? 聞き間違いかもしれないけれど、愛してる、と言った。 本当に5年後の彼は、僕を変わらず愛してたのかもしれない。 でも、僕がディーノに同じ感情を持っていることに気付くのが遅く、 その間に、見合いも結婚も子供までできたとしたら、 きっとディーノはそれを捨てられない。 例え、僕への感情が確かにあったとしても、 できてしまった家族をディーノは捨てられない。 だから? だから、 5年後の僕は過去に戻ってまで――…? 怖くなった。 怖くなって、ポケットの中に手を入れる。 触れた固い感触。 大丈夫。 まだ、間に合う。 誰にも、あげてなんてやらない。 アレは、僕のだ。 左手で固い感触を確かめながら、右手を携帯へと伸ばす。 数えるほどしか、かけたことがない。 けれど、いつだって直ぐに出てくれた。 それなのに、今は既に5コール目。 意図して、出ないのかもしれない。 不安になりながら、 落ち着かせるために、左手の固い感触を追う。 9コール目で、やっと繋がった。 けれど、何も話してこない。 さよならと、言ったのは僕だった。 「…ディーノ」 声は、何とか震えなかった。 こんなはずじゃなかった。 欲しいなら足掻く、と決めたはずだ。 それなのに足掻く前に、今怖いと思っている。 ディーノが僕をもう好きでなくてもいい。 怖いのは、感情が伴っていようがいまいが関係なく、 ディーノの懐に誰かがいることだ。 いないのなら、強気でいられる。 けど、いるのならダメだ。 ロマーリオや草壁のことを考えれば、まだ大丈夫。 それでも、本人から聞きたい。 聞かないと動けない。 「ディーノ」 いつだって、直ぐに応えてくれるのに、 今は何も言ってくれない。 ただ、緊迫する空気が伝わるだけ。 それに、少しだけ安堵する。 まだ、僕に多少なりとも感情は向かっている。 だから、左手を握りしめ、殊更明るく言ってやった。 「久しぶりだね。 お見合いするって聞いたけど、したの?」 息を飲む気配がした。 唐突すぎる、と自分でも思った。 でも、落ち着こうとしても頭は纏まってはくれないのだ。 必死に、 落ち着こうと左手に意識を向けるのが精一杯。 「ねぇ、聞いてるの?」 普段通りにしようとしても、その普段が解らない。 ただ必死さを悟られぬように、必死だった。 「…聞いて、どうするんだ?」 押し殺したその声には、戸惑いと僅かな苛立ちが窺える。 「…聞きたいんだよ」 本当に、聞きたいんだ。 そうでなければ、動けない。 もし、見合いをしたとして、 大々的に発表してなかったとしても、 婚約していたなら、どうするのだろう。 考えて、笑った。 答えは、簡単だ。 5年後の僕と同じことをする。 過去を変えてでも、ディーノを手に入れようとする。 そう思ったら、楽になった。 「…してねぇよ」 それは、とても苦しそうな声だった。 何度も何度も聞いた、別れ際の声と同じ。 「ねぇ…」 呼びかけて、言葉に詰まる。 何が言いたかったんだろう。 違う。 言いたい言葉は多すぎて、どれを言えばいいのか解らないんだ。 「…何だよ」 痺れを切らしたように、ディーノが問う。 「…会いたいんだけど」 あぁ、そうだ。 会いたいんだ。 言いたいことはあるけれど、それよりも会いたいんだ。 「…どうして、お前はっ」 あぁ、また苦しめてる。 でも、それが解っていても。 「会いたいんだけど、明日僕が朝一の便で経つのと、 あなたが明日の便で来るのとどっちがいい?」 選びなよ、と言ったら、 少しの間の後に、何だか泣き笑いの声が聞こえた。 「…そうやって、ずっとお前は俺を振り回すんだな」 問いかけのようで、 独り言のようなそれに僕は答えなかった。 それでも、 最後には何か吹っ切ったように、行くよ、と言った。 通話を切り携帯を置いて、 やっと、未だに強く左手を握りしめていたことを知る。 ゆっくりとポケットから手を出し、光りにかざす。 それから、ずっと置かれたままのメモへと手を伸ばした。 よく見慣れた自分の字で書かれていたのは、 赤ん坊から聞いた言葉であり、何度も自分で思った言葉。 『欲しいモノは、足掻いてでも手に入れろ』 言われるまでもない。 だって、欲しいのだ。 欠片だって、誰にもあげない。 大丈夫。 今ならまだ間に合うと知ったから。 迷いはない。 握っていたメモを、屑カゴへと投げ入れ笑う。 あぁ、 本当に、言われるまでもない。 僕は欲しいモノは、絶対に足掻いてでも手に入れるよ。 ずっとずっと握りしめていたモノを、左手の薬指にはめた。 未来のディーノにあげた指輪と同じデザインの指輪。 指輪は、象徴だと思った。 ディーノを縛る象徴。 ディーノが自分のモノだという象徴。 あの未来において、僕はディーノが欲しかった。 ずっと代々受け継がれていたキャバッローネの指輪は、 ディーノとあの女が持っている。 そこに、僕が入り込む余地はない。 僕が貰うはずだった指輪。 それでも、いらない、と言ったのは僕。 誰かのモノになってしまった指輪はいらない。 でも、ディーノは欲しい。 結果、欲したのは象徴であると思った指輪。 僕とディーノを繋ぐ指輪。 まだ、間に合うと知った。 だから、大丈夫。 後悔しないと、決めた。 だから、 祈るように誓うように、それにキスをした。
10.10.11〜11.04 訂正:12.20 ← End. →