「知らなかった。 あなた、婚約者がいたの?」 男に話しかけていた相手が去って行ったあとで、 思ったことそのままに訊いたら、酷く間抜けな顔をされた。 琥珀 の 眠 り 「…何、その顔」 「何って、え? 恭弥、フランス語話せたっけ?」 馬鹿な男は僕の質問にも答えず、違う質問で返してくる。 「少しだけね。 でも、だいたい何を言ってるかは解るよ」 完璧に話せるのは、 母国語の日本語以外だと、英語とイタリア語のみ。 でも、 それなりに他の言語も解りはする。 「へぇ、知らなかった」 馬鹿は未だに頭が回ってないらしく、 ボケっとした顔で、僕を見る。 「で、いるの?」 苛立ち紛れに再度訊けば、また間抜けな顔を晒された。 「…や、 いるって言うか」 男は言葉を濁す。 男の立場を思えば、別に濁すことでもないと思うが。 それどころか、今までいなかったことの方がおかしいと言えるだろう。 例え、 ここ数年、本気かどうか知らないが、 僕に、好きだ、と言っていたとしても。 「何?」 煮え切らない態度は、不快でしかない。 「いや、俺にはいねぇけど」 自分にはいないって何だ。 それではまるで、僕にはいるみたいじゃないか。 「何? 僕にもいないよ」 「…知ってる」 溜息を吐きだして、男が言う。 「だから、何?」 「うん、だからな。 勝手に、お前に婚約者がいるって言ったんだ」 「は?」 意味が解らなくて間抜けな声で訊き返せば、 俺の願望だよ、と暗く吐き捨てるように男は言った。 男の言っている意味が解らない。 先程までの男と、その相手との会話を思い出す。 「仲がいいですね」 と、近寄って来たフランス人は言ったのだ。 見たことのない相手だったけど、 男は知り合い程度ではあったらしく、そうですね、とにこやかに返した。 「家庭教師をされていたとか?」 公表していたわけでもないし、 僕は一度たりとも認めたことのないけれど、 それは噂となって、未だにマフィアの世界で話されているらしい。 けれど、それでも公表しているワケではないので、 男は笑って、付き合いが長いですからね、とだけ答えた。 それが満足のいく言葉ではなかったのか、 フランス人の男は、更に口を開く。 「ただの付き合い、ではないのでしょう?」 笑みを深めながら訊いてくる言葉は、探るような眼をしている。 さて、男はどうでるか、と思っていたら、 意外なことに、男も更に笑みを深めた。 元より整っている顔が笑めば、それなりの効果はある。 案の定、相手はその笑みに一瞬目を奪われたような顔をした。 が、僕から言わせれば、何を考えているか読ませない作りものめいたモノに見えるだけだ。 あぁ、そう言えば、 僕に対してはそんな顔でもって笑ったことはないと思い出す。 いつだって、それなりの感情を見せての笑みだった。 何かを誤魔化す時でさえ、 取り繕うことなく、素直に困った顔で笑っていた。 そんなことを思っていたら、 男は作った笑みのままで、言った。 「可愛い婚約者ならいますから、ご安心を」 その言葉にフランス人は、 何かを得たり、とでも笑って、早々に踵を返したのだ。 だから、訊いたのだ。 婚約者がいたのか、と。 「ねぇ、アレ、誰が聞いても、 僕じゃなく、あなたに婚約者がいる、って聞こえたと思うよ」 何をどう言っていいか解らないけれど、 とりあえず、思ったことは口にした。 「…そうか?」 どこか呆然と男が訊くから、頷く。 「…っは、頭、働いてねぇな」 嫌になる、とでも言うように、 男はぐしゃりと自分の前髪を掴んで俯く。 「で、どういうこと?」 どうでもいいが、 思惑からは外れたとしても、 どうして自分ではなく、僕に婚約者がいる、と言ったのか。 それも、願望で。 「…なぁ。 俺に姉妹がいたら、って言った話し覚えてるか?」 俯いた顔を上げたはいいが、 僕には視線を向けず、ぼんやり眼下の街並みを見下ろしながら言ってくる。 「何度か聞いたね」 どんな想いで言っていたかは知らないが、 突然、ぼんやりと語りかけるでもなく呟いていたのは覚えてる。 それは呟きではなく、 いつだって独り言めいていて、答えたことなどなかったが。 「だからだよ」 と、力なく笑いながら男が答える。 「だから、解らない、って言っている」 男は馬鹿だが愚かではないくせに、 今日に限っては当てはまらないのかもしれない。 いい加減、鬱陶しく思って、 どうでもいいと切り捨てて去ろうとしたら、腕を掴まれた。 振り返れば、 男は未だ街並みを見下ろし、僕を相変わらず見ないまま。 それなのに、手は離さないのだ。 今日は、本当におかしい。 何、と呆れながらに訊けば、 数瞬の沈黙の後に、男は口を開いた。 「もし、 俺に姉妹がいたら、絶対に、婚約させたのに」 言って、暫く逸らし続けた視線を僕に向けた。 真っ直ぐに、射るような視線。 「…そうしたら、 お前は俺のモノに少しはなってくれたかな」 今度はそう言って、自嘲気味に笑う。 「…あなたの姉妹なんて、冗談じゃない」 また視線を逸らした男に言い放つ。 「えー。 俺の姉妹だったら、絶対に顔はいいって」 保障するから、と力なく笑う。 「そんなこと言ってないよ」 そんなことを言っているのではない。 けど、何から言えばいいのか解らなかった。 元より、こんな話は自分には向いていないのだ。 「んー、でも、顔くらいしかねぇだろ? だって、他は全部お前が自分で持ってる」 人も、財力も。 だから、付加価値で思いつくのはそれだけだと嘯く。 「…下らない。 仮定の話でしかない」 「…あぁ、そうだな。 仮定の話でしかない」 そう言って、男は僕を見た。 また、真っ直ぐな視線。 「でも、仮定でもいいから、 俺はお前との繋がりが欲しいよ」 「…家に縛り付けるのが、あなたの言う繋がり?」 訊けば、酷く辛そうな顔をされた。 「違う。 そうじゃねぇ。 でも、解らねぇ」 解らないんだ、と男はまた俯いた。 僕はぼんやりと、掴まれたままの腕を見る。 「ねぇ、僕は弱い人間は好きじゃないよ」 言えば、ビクリと男は肩を揺らす。 その振動は、掴まれた腕までも響く。 「…そうだな」 弱りきった声で男が呟き、手を離そうとする。 「だからね。 きっとあなたに姉妹がいたとしても、 絶対に、婚約なんてしないよ」 「…強いかも、しれねぇだろ?」 腕を掴む力が、更に弱くなる。 「関係ないよ。 どんなに強くても、あなたがいる」 言えば、驚いた顔で男が僕を見た。 驚きのあまりか、腕を掴む力がまた強まる。 「あなたがいるなら、僕は他を選ばないよ」 それは、真実だった。 男は真意を探るような目で、僕を見る。 「ねぇ、あなたは間違ったんだ。 僕は同性とか関係ない」 そもそも、それに伴う感情を持ち合わせてなどいない。 「ただ僕と婚約がしたいだけなら、言えばよかったんだ」 それは勿論、好きだ、なんて言葉なんかじゃない。 「婚約くらいなら、別にいい」 例え男の周りが反対したとしても僕には関係ないし、 男がいいと言うのなら、それで終わりの話だ。 「そんな言葉で縛りたいだけなら、ただ一言――」 いつでも戦ってくれる、と約束すればいいだけだった。 縛れるかどうかは別として、だが。 「あなたが心配してるかどうかは解らないけどね、 一応、言っておいてあげる。 誰かと婚約する気なんて、一切ないよ」 そんなモノ好きなど、いるはずがないし、 したいとも、思ったことは一度もない。 だから、 言いたいのなら、言えばいい。 そう言い放てば、 男はまた俯き、それから掴む腕の力もまた強めた。 僕は、掴まれた腕を見る。 「…結局、言葉でしか縛れないんだな」 小さく、小さく男は自嘲気味に呟いた。 「でも、それでもいい。 誰かに掻っ攫われるよりいい」 どうせ、誰のモノにもならねぇんだろ、と、 ゆっくりと顔を上げ、男が言った。 暗い声だった。 その声に、頷く。 「だったら、言葉だけでもいい。 ――俺と、婚約してくれるか?」 「違うよ」 男が望んだのはその言葉でも、 僕が望んだのはその言葉じゃない。 男は傷ついたように笑い、今度こそ言い直す。 「お前が望む時に戦う。 だから、婚約してくれ」 「いいよ」 完結に答えれば、男はまた俯いた。 その一瞬、泣きだしそうな顔をした気がした。 僕は、また掴まれた腕を見る。 痛みさえ、伝わる腕。 男が何かを耐えるように、 強く強く掴むから、血が止まりそうだ。 けれど、僕は何も言わずに見ていた。 「…今から、みんなに言っていいか?」 俯いたままに、男が問う。 思いつめたような声。 僕は色の変わった腕を見ながら、いいよ、と言った。 「…今なら、みんないるからな」 「…そうだね」 今日は僕の誕生日で、ファミリーで毎年パーティーが開かれる。 必要ない、と最初の頃は言っていたが、 そこから得られる情報、人脈、貴重な指輪などを思えば、 多少面倒でも、得られるモノが多さに我慢した。 ただし、他の守護者に比べ規模を小さくすることと、 主賓の僕に関与しない、ということを条件に。 「…いつか」 ぽつりと呟いて、男が顔を上げた。 僕は、そんな男を見る。 「いつか、お前の心も手に入れるよ」 そこに浮かぶのは、 覚悟ではなく、哀しみだった。 男自身に対してか、僕に対してか知らないけれど。 僕はそんな男を見て、ただ憐れだと思った。 男が望むなら、 大抵の人間が喜んで尻尾を振ってすり寄るだろうに、 どうして、僕だったのか。 問うたところで、 人の感情に理由などないだろうから無駄な問いはしないが、 それでも問いたくなるくらいには、憐れだった。 「もういい。行くよ」 背を向けて歩こうとしたら、腕が引っ張られる。 そう言えば、腕を掴まれたままだった。 酷く強く掴まれていたため、碌な感覚がない。 離せ、と言おうと振りむけば、 感覚のない変色した腕を、男がそっと撫ぜる。 その感触さえも感じられない腕を男はもう一度撫ぜ、 ごめんな、と呟いた。 答える言葉など持たなくて、男の気が済むまで放っておいた。 そうすることしか、できなかった。 男が欲しいのは言葉ではなく、感情だと知っている。 けれど、 それを確実に返せるとは、思えない。 できない約束はしない。 だから、言葉だけだと言った。 それでも、 持ち合わせていないと思う感情を持つことがあるとしたら、 その相手は、この男以外は有得ないだろう。 僕の深い所まで踏み込むのは、いつだってこの男だけ。 それを不快に思わないのも、この男だけだった。 けれど、それは言わない。 確実性のないことは、言う必要などないのだから。
11.05.04〜05.05 ← Back