山本武が事故にあった。



居眠り運転のトラックが突っ込んでくるのから、子供を庇ったらしい。
骨折するでもなく軽症に済んだけれど、記憶が飛んでるらしい。

噂が流れて1週間、当事者の男が今日から復帰しているらしい。







透明なひび

どっかの馬鹿が自殺騒ぎを起こして以来、屋上は立入禁止となった。 それでも、風紀委員長権限で鍵は僕の手の中。 だから、ここには誰もこない。 例外的に来る人間がいたが、それももう来ないだろう。 そう思っていたのに、開いた扉。 「…えっと」 扉を開けた男が、僕を見つけ戸惑ったような顔をする。 「何?」 端的に問う。 「いや、なんか、足が向いて?」 自分のことだろうに、何を疑問符を付けて問うのか。 「ここは立入禁止だよ。  さっさと、出て行って」 指で入ってきたばかりの扉を指し示す。 「え、でもアンタは?」 何もかも忘れた男は、僕に訊いた。 「ここは、僕の場所だからいいんだよ」 だからさっさと出て行け、と眼光を強める。 それに些か戸惑いを深めた素振りを見せるくせに、どうしてか立ち去らない。 早く出て行け、と言おうしたところで男が先に口を開いた。 「俺さ、ここに来てなかった?」 覚えてないんだけど、と心底困りながらも男が言う。 「なんか、よく解んねぇんだけど、  気が付いたらここに足が向かってて…」 それが違和感なかっていうか、とかなんとか男は続ける。 そんな男をじっと見た。 記憶を失くしても、身体は覚えてるのだろうか。 男は自分が言うように、毎日のようにここに来ていた。 何をするでもなく一方的に男が喋り、僕は気が向いた時だけ適当に返事をしていた。 けれど、それを教えるつもりはない。 「来てないよ。  さっきも言ったとおり、ここは僕以外は立入禁止だからね」 気のせいだよ、と言い切れば、 納得いかないような顔をしつつも、記憶がないせいか信じることにしたらしい。 「そっか、悪かったな」 じゃあ、と背を向けた男を、 何故か、本当に、何故か解らないけれど引き止めてしまった。 「訊いていい?」 扉に手をかけたまま、男が振り返る。 「記憶、ないんだって?」 「あ、あぁ。  なんか知らねぇけど、学校中の噂になってんだよな」 何で知ってるのか、と、 一瞬不思議そうな顔をしたけれど、男は苦笑しながら答えた。 「医者は事故のショックで一時的なモノだろうって言ってるんだけど、  記憶がないっていうか、曖昧なんだ。  自分や親のことも覚えてたし、生活に困らない程度の記憶はある。  それに、授業受けたらなんとかついていけたからそっち方面も大丈夫みたいなんだけど、  対人ってーの?なんかここ1,2年に関わった人間のことをサッパリ覚えてねぇんだよな」 まぁ、今のとこ困ってないからいいけど、とまた笑う。 苦笑する割りに、言葉の通り本当に困ってなさそうだった。 苦笑して、本当に困った顔ばかり見てたから、その違いは解る。 好きだ、と言われた。 どうしたら、好きになってくれる、と、 泣きそうなのを苦笑で誤魔化して訊かれたことも何度もあった。 その顔とは、程遠い。 「ねぇ、女の子好き?」 唐突な質問に、男は驚き目を瞠る。 「え、何?」 「答えて」 戸惑う男に重ねて問えば、困りながらも答えた。 「そりゃ…可愛いし、好きだけど」 それがどうした、とでも言いたそうな顔。 だから、いいかと思った。 一生言ってやるつもりなどなかったが、 言ってやるとしたら、今しかないと思った。 この男なら、 間違っても絶対に、僕を好きにならないだろうから。 「君が、好きだったよ」 え、と固まったまま動かない男。 それは単に間抜けな面でしかなく、 あれだけ望んでいた言葉を受け取った男の顔ではない。 それに満足する。 喜ぶ顔も、 嬉しそうな顔も、見たくはなかった。 捻くれている、と自分でも思うが、 別に両想いというモノに興味はなかった。 固まったまま、僕を凝視して動かない男は未だ復活する様子は見せない。 だから、諦めて先にこの場を辞することにする。 鍵は、またあとからかけにくればいい。 視線が僕を追うけれど、気にしない。 すれ違いざまに一度止まり、男の目を見ていった。 「過去形だから、忘れていいよ」 言われた意味を理解できていないのか、 言葉もなく僕をまだ見続ける男の視線を無視して階段を下りた。 好きだったのは、僕を好きだと言った男。 捨てられた犬のような目で必死になっていた男。 もう、いない男。 だから、僕を忘れた男に用はない。 ――けれど、そんな男にだからこそ伝えた言葉。 今は理解不能の出来事に呆然と立ち尽くしているけれど、どうせすぐに忘れる。 一時的だろうと、 記憶を失くした男には日常が待っていて、その日常に僕はいない。 さっさと日々の出来事に埋もれて、 僕の言葉も、存在すらも忘れればいい。 想う相手がいなくなったのだから、僕も、きっとすぐに忘れる。
08.09.11 Back