浮上する意識。
同時に感じる、むせ返るほどの薔薇の匂い。

重い瞼を上げれば、ガラス越しに見える天井。
動かない身体の変わりに視線を巡らせれば、狭い箱の中に横たわっていることが解る。
それも、白い薔薇に埋め尽くされた箱の中。

まるで、棺桶の中だった。





砂の薔薇

「気が付いたか?」 静かにガラスがのけられ、顔を覗かした男。 見慣れた顔より随分大人びていて、顎に傷さえもあった。 「ヒバリ、久しぶり」 伸ばされた手は、頬に触れた。 トンファーで殴ってやろうにも、手はピクリとも動かないし、 そもそもこの状況で隠し持っているのかも怪しい。 それでも気配で何をしようとしたのか気づいたのか、男が笑った。 「8年も寝てたんだ。  すぐには動けねぇよ」 言われた内容に愕然とするも、納得する。 納得しないかぎり、こんな男を知らない。 もっと子どもじみた男しか、僕は知らない。 「でも、もう大丈夫だ。  ちゃんと治ったから」 何がと問おうにも、声さえもでない。 無駄に開いた口が、空気を吸い込むだけ。 「病気になったんだ。  当時の医療じゃどうにもならなくって、死を待つだけだった」 覚えてない?、と訊かれたところで、脳は記憶をうまく思い出せない。 そんな僕に構うことなく、冗談じゃないだろ、と、 男がまた笑い、僕の髪に触れる。 「だからさ、望みにかけた。  コールドスリープって凄ぇよな」 髪に触れていた手が、再び頬へと移った。 「どんなSFな話だよって思ったけど、俺はそんな話に賭けたんだ。  だってお前が寝てる間に、医療が進歩さえすればお前が助かるんだから」 静かに笑う男。 それから、思い出す8年前。 あの時、プロになる、と男は笑っていた。 馬鹿みたいに素直に笑っていた。 それから8年経った今、男はどう見てもプロになったとは思えない。 それどころか、野球を続けているとも思えない。 当時、沢田と獄寺がイタリアへと渡っていた。 マフィアになると言っていた。 それを男は断った。 やりたいことがあるから、と。 なのに、どうして…。 訊くまでもなく、男がマフィアになったことが解る。 今の状況を作り出すために、男は交換条件を飲んだのだろう。 もちろん、沢田のではなく赤ん坊の。 狡猾に笑う赤ん坊の顔が想像できるが、 それも8年経った今では加わる凄みも違うのだろうか。 「…だろ」 酷く掠れた声が口から漏れた。 言いたかった言葉はうまく音にはならなかったけれど、 それでも男は的確に音を読み取って、笑った。 「ヒバリが生きていればいい」 馬鹿だと思った。 本当に、馬鹿だと。 やりたいことがあるからとマフィアへの誘いを断ったくせに、 僕を助けるために、マフィアとなった。 生きていればいい、と言いながら、 自分の方が死へと近い生活を選んでどうする。 抱き起こそうと伸ばされた手を、見ていた。 長年動かすことのなかった身体は、 視線を動かすことがせいぜいでしかなく、男のなすがまま。 上半身を抱き起こして、男が笑う。 「花、ついてる」 手が髪に触れ、花弁を落とした。 落ちていった花弁は、敷き詰められた白い薔薇の中に消えて行く。 「悪趣味」 掠れたけれど先ほどに比べ、聞き取れる程度に回復した声。 「まるで棺桶みたいって?」 クスクスと男が笑う。 そんな悪趣味な男を見上げる。 視線が合って、男は笑みを消す。 「覚悟してたんだよ。  あと20年は、待つつもりだったんだ。  でも、それ以上は待つつもりはなかった。  例え治療法が見つかっても、使わなかったよ。  俺の後先が少ないのに、ヒバリだけがゆっくりと歳を重ねるのってないよな」 何がないのか解らないままに、男が続ける。 「手に入らないのなら、死だけでも手に入れようかと思った。  腐らない、成長しない、キレイなキレイなヒバリ」 最高だろう、と困ったように男が笑った。 「狂いでもしたの?」 やけに冷静な声で訊いた。 「…かもな?  嬉しいと思ってるんだぜ?  治療法が見つかって、ヒバリが目覚めて」 でも、と、男は続ける。 「もっかい、眠ってくれねぇかなって思ってる」 笑いながらも、目は笑わずに男は告げてくる。 「やれば?」 そこにある日本刀で、と視線を男の傍にあるものに向けた。 今なら碌な抵抗なんてできないし、何故かするつもりもおこらない。 もう一回どころか、永遠に僕は眠りにつく。 それこそ男が望んだように、僕の死が手に入る。 意味を理解した男が笑う。 完全なる苦笑で。 「いや、生きてて欲しいって言ったろ?  死んだら意味がない」 戒めなんだよ、とまた笑う。 「赤でもよかったんだ」 言いながら、 白い薔薇を掴み上げ、くしゃりと音を立てて握りつぶした。 「でも、赤だったら解らないだろ?  衝動のままに斬ってしまって、ヒバリの血で花が染まっても」 だからだ、と理解できない言葉を告げてくる。 「理解しなくていいぜ。  俺だってよく解ってねぇから」 それから、ふっと笑う。 何もなかったように、すべてを消し去るように笑う。 「でも、もういい。  10年と待たず治療法が見つかって、ヒバリが目を覚ました。  それから――、生きてる。  だから、もういい」 抱きしめてくる腕に捕らわれながら、 男の心音が聞こえ、それに僅かにずれて感じる自分の心音。 死んだつもりも、 病気になった覚えもないが、 ただ、生きている、と思った。 それから、男が哀れだった。 覚えはないが、 病気になって8年間もコールドスリープされた挙句、 思い至った結果が、ただ、それだけだった。
07.09.11〜09.16 Back