「何をしているの?」 ゆったりとソファーに座った僕の足元に男は膝を折り、 僕の手を取って恭しく口付けた。 愛を乞う人 「愛を乞うてるんだよ」 男は、ニヤリと笑う。 「愛なんて知らないくせに」 取られた手をそのままに答える。 男は万人に好かれ、愛されてきた。 それを自分で知っているくせに、気付かないふりで当然のように受け止める。 けれどその実、男は『愛』が何かを理解していない。 そんなモノ、男にとっては、取るに足らないモノでしかないのだから。 「ヒバリがそれを言うのかよ。 愛してもらったことなどないくせに」 男は、笑って言い放つ。 気まぐれに、愛してる、と囁いてきた相手に対して。 けれど、それは事実。 僕も『愛』が何かを知らない。 知るつもりもない。 「解っているなら、他にいけばいい」 こんな男でも本性に気づかず――、 いや、気づいても、愛情を傾ける人間もいる。 「俺はヒバリがいいんだよ。 何度も、愛してる、って言ってきたのに忘れたのかよ」 薄く男が笑う。 「僕は誰にも、愛してもらったことなどないんじゃなかったの?」 同じように僕も笑ってやれば、男は肩をすくめまた笑う。 「ヒバリがいいんだって」 「僕はごめんだ」 「何が?」 向けられたのは、逸らすことを許さぬ目。 「俺に愛されること? それとも、俺を愛すること?」 「どちらも」 そんなこと、どちらも有り得ない。 「手厳しいな」 心底楽しそうに、男は笑った。 「必要ないだろ」 互いに、そんなモノは必要ない。 必要があれば、男も僕もその意味を知っているはず。 「単に、今までは必要なかったから、って発想は?」 今は必要だとでも言いたいのだろうか。 男が苦笑で訊くのを、僕は切り捨てる。 「ないね。 面倒は嫌いだよ」 必要なモノだけあればいい。 重荷になるものなど、いらない。 「それが楽しいって思えれば、 『愛』ってヤツが理解できるのもしれねぇな」 溜息を吐き出しながら、男が笑った。 少しだけ淋しそうに。 「理解しなくてもいいんじゃないの」 理解など、する必要がない。 今までなくても困らなかったんだ。 むしろ、それから目を逸らし続けてきた男が何を言うのか。 「そうだな。 …でも、俺は理解したいと思ったんだ」 お前を愛したいと思ったんだ、と、 珍しく男が表情を隠し、俯きながら答えた。 「必要ない」 無理をして、愛そうなんて馬鹿げている。 そんなモノを愛だと言わない。 僕はそれがどんなモノか知らないけれど、そういうモノだとは理解している。 「ヒバリは、狡いな」 僕の手を引っ張り、男は僕を抱きしめた。 「…今更、か」 呟いた男の声は低く暗く、 自分に対してか僕に対してか、 そのどちらもに対して言ったのかさえも解らず、僕は答えなかった。 ただ抱きしめられたままの態勢から、 逃れることも動くこともせず、視界の端に映る男の黒髪を見ていた。 愛なんて知らない。 必要ない。 だって、理解できない代物だから。 それは、男も同じこと。 それでも、愛したい、と男は言う。 それなら、勝手にすればいい。 僕を巻き込まないで欲しい。 それなのに、 僕の口から滑り出た言葉は、愛して欲しいの、と問う下らないモノだった。 男はビクリと肩を震わした後に沈黙し、それから小さく頷いた。 何も言わなくなった男の頭を、僕は黙って引き寄せた。 より近づいた耳に、無理だよ、と囁いた。 男はそれでも何も言わず、ただ抱きしめる力を強めた。 僕は黙ってそれを受け入れていた。 どう足掻いたって、無理なんだ。 今更、知らない感情を手に入れようとすることも、 それを欲することも、無理でしかないんだ。 僕は、愛が何か知らない。 男も、愛が何か知らない。 それでも男が、僕を愛したい、と思う気持ちは、 痛いまでに真実だと言うことは気づいている。 それは、世間一般で言う愛なのかも知れない。 けれど、 僕も男も、愛なんてモノが何かを知らないから判断できるワケがない。 だからこそ、男は足掻いている。 苦しそうに、足掻いている。 本当は、気づいている。 そこまで他人に対し想う感情を、 愛なんて下らない呼び名をするのではないだろうかと言うことを。 それを呼ばないで、何を愛と言うかと言うことを。 そんな下らないことに、おぼろげながらも気づいている。 けれど、気づかないふりをしている。 ――そして、 足掻くことでいっぱいの男は気づかないから、言うつもりはない。 強く抱きしめてくる腕が、僅かに震えている。 静かに、静かに、溢れだしそうな感情を耐えている。 いっそ、哀れだと思うほどに。 結局、愛かどうかなど判断する術もなければ、 判断できたところでどうしようもなく、 そんなどうしようもないモノならば、僕は必要としない。 だから、どう足掻いたって無理なんだ。 僕と男の間に、 愛なんてモノは存在しないし、できるはずがない。 それが、答えでしかない。 だからもう一度、無理だよ、と囁けば、 男は強く抱きしめていた腕から、だらりと腕の力を抜いた。 僕は何も言わず、 自分から離れることもせず、ただ黙ってそれを受け入れた。 離れていった温度が心臓を僅かに軋ませたが、 そんなこと有り得ないと気づかないふりをし、ただ力なく垂れた男の腕を見ていた。 愛を知らない人間が、誰かを愛することも、 愛を知らない人間が、それを受け取ることも、 どう足掻いたって、今更 無理な話でしかない。 ――何を以って、愛と言うのか知らないのだから。
06.09.28〜07.06.12 ← Back