無駄に広く、無音な冷たい箱。 そんな箱の中にいるのが、嫌いだ。 In the Box. ギィっと耳障りな音を立てて、扉が開いた。 それでも、僕は動くことなく屋上でうつ伏せになって寝ていた。 この学校で学ランを着ているのは僕だけで、 自分が周りにどんなふうに思われているかを知っている。 だから、誰だか知らないけれど、 日曜だと言うのにこんな場所に来る馬鹿でも、すぐに立ち去ると思っていた。 それなのに侵入者は立ち去る様子はなく、僕に近づいてくる。 そして、止まる。 僕の射程距離を、測ったかのように僅かに残し。 目を開ければ、男がいた。 いつか見た男。 僕の攻撃を、初めてかわした男。 「やっぱり、いたな」 ニッと男が笑う。 それを僕は見上げる。 攻撃する気は、何故か生まれなかった。 「夏休みの間、ずっと学校に来てたよな? 俺、部活で毎日来てたんだけど、毎日アンタ見たぜ。 最初は委員会かと思ったけど、 毎日あるもんでもないし、何しに来てんだろうってずっと思ってたんだよ。 まぁ、そう思ってるうちに夏休み終わってさ、 じゃ日曜はって思って、今日部活終わって探したら、やっぱいたな」 男は、訊かれもしないことをべらべらと喋りだす。 そんな男を、僕はずっと見上げていた。 「…えっと、何か反応ねぇの?」 困ったように男が笑う。 「君、ストーカー?」 問えば、男はきょとんとした顔をした。 それから、破顔する。 「あー、そっか。 言われて見れば、そうかもな。 俺、何やってんだろうなぁ。 でも、本当にアンタ何してんだ? 委員会でもなければ、 部活なんて入ってねぇだろうし、ひとりで屋上で寝てるだけ?」 解らない、と首をひねる男。 「楽しいよ」 呟いた言葉に、男が反応する。 一瞬、驚いた顔をしたくせに、今は真剣な目をして僕を見下ろす。 「無駄に広い敷地でも、無音でもなければ冷たくもない。 だから、僕はこの箱が好きだよ」 どうしてこんな言葉を、 こんな男に吐き出しているのか解らなかった。 じっと、男が僕を見る。 その目に映るのは、奇異か憐憫か。 そんなこと知りたくもなく、目を閉じた。 早く、消えていなくなれと思った。 それなのに、変らず男は去らない。 ただじっと、僕を見下ろす視線が感じられる。 そんな視線に耐えられず目を開ければ、男は何故か踏み出してきた。 だからなのか、ただの反射なのか解らないけれど、僕は寝たままトンファーを繰り出した。 それを避けることなく、掴んで止める男。 何処かで止められることが解っていたのか、 僕は驚かなかったし、追撃をする気も生まれなかった。 「本当に、無音じゃねぇな」 男はトンファーを掴んだまま座り込んで、呟いた。 「グランドからは運動部の声が聴こえるし、 校内からは吹奏楽部の楽器の音も聴こえる。 広いのに、全然無音じゃねぇのな」 そう言って、柔らかく笑う男。 僕は何故か何も言えず、目を閉じた。 掴まれたままのトンファーから、手を離すこともできないまま。 男は黙って座り続け、 僕もうつ伏せに寝たまま動かない。 無言のまま、気づけば西の空は赤く染まっていた。 それでも男は、立ち上がろうともせずに座り込んだまま。 赤く染まっていた空も、夕闇へと変っていった。 音が、もう聴こえない。 人の気配も、隣の男以外は消えた。 この箱も、無音の冷たい箱へと変化を遂げる。 それでもあの箱を思えば、比べようにならないほどに好ましい箱。 目を閉じたまま、掴んでいたトンファーから手を離す。 男の視線を感じたが、無視する。 無機質なコンクリートを、身体いっぱいで感じるように腕を広げた。 いつの間にか定着してしまっていた、帰り際の独りよがりの儀式めいたモノ。 隣に男がいようが、関係なかった。 どうせ、意味など解りはしないのだから。 そう思っていたのに、男は気づく。 「抱きしめるほどに、学校が好きなのか?」 目を開ければ薄闇の中、男の目が僕を見つめていた。 じっと、その目を見返して言った。 「僕の居場所を、取らないでよ」 気づかなくていいことに、どうして気づく。 そんなことに、気づかなくていい。 気づかれれば、僕は僕でいられなくなる。 嫌いな群れるだけの草食動物と変らなくなる。 あんな弱いモノと僕が一緒だなんて、認められるワケがない。 痛いくらいの視線から、逃げるように目を閉じた。 男は何も言わず、僕も何も言わず、 男が持ったままだったトンファーを取り返した。 それでも、男は何も言わず、 どんな顔をしているのかなんて、相変わらず僕は見れなくて、 有り得ないことに、逃げるように扉へと向かった。 男が入ってきた時と同じ耳障りな音を立てて扉を閉めても、 男はそこから動く気配はなく、僕はただ後悔と共に自分の弱さを噛み締める。 踏み出した箱の中は、 いつもと変らない薄暗さなのに、感じる温度だけが違った。 僕が、最後じゃない。 まだ男が、いる。 たったそれだけのことなのに、箱の中の冷たさが違った。 そう感じる自分の弱さが悔しくて、 早くこの場から走り去りたいのに、弱さを認めることなどできなくて、 何もかもなかったことにして、走り出すことなく歩き出す。 普段なら立てない足音も、 帰る時だけ立ててしまうのは、そうまでしても音が恋しいのか。 何処までも弱さを見せ付けられた、今日。 でも、何もなかった。 何も、なかったんだ。 だから、明日も変らぬ日々が訪れる。 そう人が決心をつけたと言うのに、どうして男は邪魔をするのか。 「ヒバリっ」 大人しくあの場にいたらよかったのに、どうして追いかけてくる。 そんな男を無視すればいいものの、どうして僕も振り返ってしまうのか。 それでも声を出すことをせず視線で問えば、乱れた息を整え男は笑う。 「明日、一緒に帰ろうぜ」 笑っているくせに目は真剣で、それが酷く僕を苛立たせる。 「君、何様?」 禄に話したこともなく、互いにいい印象など持っていない。 それが解っているのに、どうしてそんな言葉を吐く。 「明日も、明後日も。 学校ある日も、ない日も。 ヒバリがこの学校に通ってる間ずっと」 男は僕の問いには答えず、勝手に自分の続きを言った。 「何――…」 言ってるの、と続くはずの言葉は、男の言葉にかき消される。 「一緒なら暗くなっても、 冷たさも変るし、音も増える」 何、馬鹿なことを言ってるの、と言えばいいのに、 どうやっても、言葉が出てきてくれない。 言いたいのは、本当。 けれどそれ以上に、男が言った言葉を望んでいる。 いくらあの箱に比べればマシだと言っても、 誰もいなくなってしまえば、この箱も冷たく無音なモノへと変る。 それは、嫌なんだ。 けれどそれを、素直に言えることも出来ない。 ただ男の真剣な目を、黙って見つめ返すしか出来なかった。 動いたのは、男。 離れていた距離を縮め、僕の手を取る。 それから、帰ろう、と笑った。 真剣な目は、ただ柔らかく笑う目に変っていて、 それでも僕は何も言えなくて、 手を振りほどくこともトンファーを繰り出すこともなく、黙って男に付き従った。 秋風が肌寒く感じさせる中、男が隣に立つ右側だけが冷たくなかった。 もう何も、考えたくなかった。 今日のことも、変るかもしれない明日からのことも。 例え今ひとりではなくても、帰り着く先はあの冷たい箱だということも。 今はただ、隣に感じる温度と、 会話もない中、並んで聴こえる足音だけがすべてだった。 それ以外は、 何も、何も、考えたくなかった。
06.09.09 ← Back