「…何で?」

呟いた声は、
内心の困惑とは裏腹に、酷く冷静な声だった。





空蝉の帰還者

「何で、って、酷ぇな。  つーか、逆に俺が訊きてぇよ。何で?」 なぁ、ヒバリ、と笑う男は、幽霊でも幻でもなく現実。 それでも、俄かには信じられない。 10年前、 身体的理由で兵役を免れた僕と違い、戦争に行った男。 その数年後、死亡したと言われた男。 「訊いてる?  俺は、何でって訊いてんだけど?」 そう言って触れられた手は温かく、生きているのだと決定的に思い知らされた。 「君に訊かれることなど、何もないよ」 「…へぇ。  そんなこと言うワケ?」 触れられていた手で、キツく顎を捉えられる。 覗きこむ目が、射抜くように僕を見る。 「待ってるって言ったくせに、  他の男と仲良く暮らしてるって聞いたけど何で?」 「…僕は、待ってるなんて言った覚えはないよ」 それは、事実。 僕は、そんなことなど言っていない。 男も、待っててくれ、とは言わなかった。 「それでも俺はあの時、  言葉にしなくても、お前は待ってるって思ったんだよ。  違ったみてぇだけどな」 そう言って、乱暴に掴まれていた顎を離された。 僕はそのことに抗議せず、もう一度訊いた。 「何で?」 その意味を違えることなく、男は答える。 「…密林で、保護された。  仲間もみんな死んじまって、ひとりでゲリラ戦やってた。  戦争が終わっただなんて信じられなかったけど、とっくに終わってたんだな。  もっと早く解ってたら、お前、俺のこと待ってた?」 何処か哀しそうな目で、男は僕を見た。 男が言う一緒に住んでいる相手とは、出会って2年目。 終戦したのはその3年前で、男が死んだと連絡が入ったのはその1年前。 「…さぁ」 「…っ、何だそれ。  こういう時は嘘でもいいから、うん、って言っとけよ」 男は、やりきれないと言ったふうに笑った。 「僕は、嘘を吐かないよ」 正直に言ってやれば、 一瞬の沈黙の後に、吐けないだけだろ、と男は諦めたように苦笑した。 「もう、俺とはいられねぇ?」 苦笑を消し、男の顔が訊く。 「死んだんだよ、君は」 「…生きて、お前の目の前にいるぜ」 「僕は、君の望むように待っていなかった」 そう告げれば、男は黙り込んだ。 それでも目を逸らすことなく、再び口を開く。 「ヒバリ、遠まわしに何を言っても無駄だ。  はっきりと答えを言えよ」 その言葉に、今度は僕が黙り込む。 嘘は嫌いだった。 同じだけ、本当の気持ちを言うことも嫌いだった。 だから、いつも残された手段は黙り込むだけ。 それを知っている男が、笑った。 「…相変わらずだな」 そう言って伸ばされた手が、僕の頬に触れる。 その暖かな感触に、目を閉じる。 それでも、言葉は何も生まれない。 「ヒバリっ」 突然、沈黙を破るように幼い声がした。 その声に男は驚き、手を離す。 現れた子どもが、僕と男との間に立ちはだかる。 「何してるんだよっ」 まだ小さい身体で精一杯、男に向かって叫ぶ。 「…誰?」 男は突然の事態についていけないようで、救いを求めるように僕を見た。 「…一緒に暮らしてる」 「コイツが?」 男はまじまじと子どもを見つめ、 子どもは怯えながらも、僕を守るためか男を睨み上げる。 「…男と暮らしてるんだよな?」 「彼が、女の子に見える?」 「いや、って、え?  俺てっきり…って、え、ちょ…」 男は酷くうろたえた様子で、ひとりで何かをブツブツ言い始める。 そんな男に子どもは違う意味で怯え、不安そうな目で僕を見上げた。 安心させるように子どもの頭を撫ぜ、大丈夫だからと家に帰らせた。 それに男は気づかず、ずっとうろたえたまま。 「ねぇ、いい加減に戻ってきたら?」 その困惑した思考から、と言うつもりで言えば、 男は抱え込んでいた頭を勢いよく上げた。 それから、いきなり僕を抱きしめた。 「戻ってきていいんだな」 先ほどの困惑っぷりからは考えられぬ、真剣な声。 抱きしめる腕が、ほんの少し震えてる気もする。 だから、訂正するのを止めた。 「…勝手にすればいい」 答えた声はそっけなかったと言うのに、 男は嬉しそうに、勝手にする、と笑った。 「なぁ、あの子ども何?」 帰り道、男が訊いた。 「一緒に暮らしてる」 「それは解ったけどさ、何で?」 「拾った」 ただ事実を告げれば、呆気に取られた顔で男は立ち止まった。 「何?」 「いや、別に」 ふっと、笑う男。 「言っとくけど、寂しかったからじゃないよ」 男に無性に腹が立ち、それだけ言って歩き始める。 「違うって。  いや、全くそう思わなかったワケじゃないけど」 言わなくていいことまで口にするから、 一発殴ってやろうと立ち止まれば、酷く真剣な顔をする男がいた。 「生きようとしてくれて、嬉しかった」 男が何を言っているのか、解らない。 「俺が死んだと思って、ヒバリまでも死のうとしないでくれてよかった。  ヒバリがそんなことするとは本気で思ってないし、  勘違いで男と一緒に住んでると思って責めた俺が言えることじゃないけど、  それでもこうして会えた今、ヒバリが生きててくれてよかった。  生きることに希薄だったヒバリが、  生き物、それも動物じゃなく人間を拾ったのって、生きようとしたからだろ?」 だから嬉しかった、と男がまた笑う。 笑っているのにそれが何処か哀しくって、僕は何も言えず黙り込む。 行こうか、と歩き出し僕を追い抜いた男に、たまらず声をかける。 「もし君が本当に死んでいて、  もし僕が子どもではなく他の男と一緒に暮らしていて、幸せに過ごしていたら?」 男が、振り返る。 その表情は、逆光でよく見えない。 「ヒバリが幸せなら、俺は何も言わない」 でも、と男が続ける。 「それは俺が死んでた時に限ってな。  今のように、死んだとされていたけど本当は生きていて、  勘違いじゃなく、ヒバリが他の男と一緒に暮らしてて、  それで幸せそうに笑ってるなら、俺は奪うよ?」 「君が勘違いしたままのあの時、僕がはっきりと拒絶を示したとしても?」 男は、黙り込んだ。 それでも、僕は動けないまま男の答えを待つ。 「――奪う。  俺が死んでるなら兎も角、  生きているなら俺以上にヒバリを幸せにするヤツなんていねぇよ。  ヒバリがそれを幸せだと言うのなら、それが勘違いだったと解らせる。」 だから奪う、と言い切った男に、僕は呆れて笑うしかなかった。 降参するしか、なかった。 立ち止まっていた足を、前へと進める。 男を追い越す間際、もう一度、勝手にすればいい、と言ってやった。   男は苦笑で、ごめんな、と言った。 そんな言葉は、欲しくなかった。 でもそれを言わざるを得ない男の心は、いつもずっと欲しかった。 男のエゴは、重い。 けれど、それ以上に、僕のエゴは重い。 けれど、男はそれを知らないままでいい。
06.08.27 Back