「結婚するから」 何の前置きもなく、突然言われた言葉の意味が解らない。 Baby. ティラミスからシンタローの来訪を告げられて喜んだのは、ほんの数十秒前。 それなのに、今はもう、絶望の淵に立たされているような気分だ。 コタローの一件以来、シンタローは私を殊更避けるようになった。 それまでも避けることは多々あったが、それは照れや気恥ずかしさからくるものだった。 けれど、今は違う。 嫌悪と軽蔑からくるもの。 故に、 私にとっては重要で、シンタローにとってはさして重要でもないことでも、 総帥命令と称することで呼び出しに応じていたにも拘わらず、 今はもう、本当に重要な用件以外は、罰則を受けてでもいいからと応じることはなくなっていた。 けれど流石に、 罰則を科せることなどできるはずもなく、結局は私が折れていた。 そんなにまでして、私を避けていたシンタローが総帥室に訪ねてきた。 これを喜ばず、何を喜べばいいのか、と思っていた自分が愚かしい。 少し考えれば、 私にとってよくないことだと、すぐに気づいただろうに。 「…何て言ったの」 知らず、声が震えた。 「結婚する。 団も辞める。 だから、出て行く」 だから、何て言ったの。 解らないよ。 ――解りたくもない。 理解できないでいる私を、シンタローは冷ややかな視線で見ている。 それでも一向に理解を示さない私に見切りをつけたのか、 早々に踵を返そうとするのを慌てて呼び止める。 「…どうして?」 相手は、誰? 定期的に、シンタローの身辺は調査を入れている。 そんな中で、シンタローに女の影はなかったと言えば嘘になる。 けれど、どれも一夜限りの女だった。 それでさえも許せることではなかったけれど、 コタローの件でシンタローの取り乱しようを思えば我慢せざるを得なかった。 二度はない。 だから、我慢していたのに。 そんな女の誰かと結婚するの? 私を置いて? ――そこにある理由は? 「子供ができたの?」 考えて思い至ったのは、妊娠。 コタローに対して愛情を持っているのを知っていたのに、引き離し取り上げた。 だから、コタローの代わりにでもできてしまった子供を愛するの? だから、結婚しようとしているの? 「だったら?」 変わらず冷め切った目で淡々と伝えられると、その感情が読めない。 いつもだったら手に取るように解るのに。 今は、何も、解らない。 解るのは、ただ、絶望的な言葉を聞いたということだけ。 違うのなら、どうして。 私以外の誰を愛すというのか。 私以外の誰を愛せるというのか。 もう、何も、何も、解らないよ。 だったら――… 「子供を置いていって」 絶望の中、呟いた言葉はそれだった。 反射的に掴み掛からんばかりに怒り狂うシンタローを想像したけれど、それは大きく外れた。 「……」 冷め切った目のままに、口元が嘲笑するかのように歪んで何かを呟かれた。 それはとても小さな声で聞き取れず、聞き返そうとする前にシンタローが口を開く。 「そうまでして、身代わりが欲しいか」 先ほど呟かれた言葉とは違う気がしたけれど、どうでもよかった。 訊かれたままに答える。 「欲しいよ」 即答で答える。 身代わり、という意味は半分しか合ってはいなかったけれど、 欲しいか欲しくないかと問われれば、欲しいに決まっている。 だって、お前はもう決めてしまったんだ。 決めたことを、お前が覆さないと知っている。 どんなに足掻いても、もうお前は出て行ってしまうんだ。 だったら、その子供を望んで何が悪い。 いなくなるお前を繋ぎ止めることができない私を、どうやって慰めればいいのか。 お前の代わりなんているはずなんてないけれど、 それでもお前の血を引いていると言うのなら、私は愛せるよ。 そこに自分の血も混じっているという事実などどうでもよく、 他の女の血が入ってることは殺したいほどに憎くとも、 それでも、お前の欠片が残っているというのなら、お前を愛したほどじゃなくても愛せるから。 それに、 お前は優しいから、置いていった子供が気になるだろ? 気になれば、引き取った私を思い出すし、 もしかしたら、気になって戻ってきてくれる可能性も高い。 ――だから、 出て行くと言うのなら、 それを止めることができないと言うのなら、 せめて、せめて、子供を置いていってよ。 「…最低だな」 吐き捨てるように言って、シンタローは出て行った。 「っシンタロー」 答えを聞いていない。 止めなければ、と思うに、 足は縫いとめられたように動いてくれない。 こんな最後は嫌なのに、 それなのに、何もできず、ただ閉じ行く扉を見ていた。 欲しいのは、身代わりじゃない。 保険だ。 お前が戻ってくるという保険。 それなら、我慢する。 でも、違うと言うのなら、 保険にすらならないと言うのなら―― …どうすると言うのか、 その答えは見つからぬままに、扉が音を立てて閉まった。 バタン、と立てられたそれは、絶望の音に聞こえた。
08.07.29 ← Back