気づけば、陽はとうに沈んでいた。 部屋は暗く、淡く月明かりだけが照らしていた。 Cry for the moon. 目の前には、高く積みあがった書類の山。 手をつけられなかった。 次々に届けられる書類を持ち込むティラミスが途中で諦めなければ、 この倍以上の書類に埋もれることになっていただろう。 今日はもうお帰りください、そう言ったティラミスの表情は読めなかった。 いくら表情を出さないと言っても、何年も付き合っていれば、 僅かな違いで感情が読めるようになっていたが、それさえも放棄していた。 相変わらず、と呆れたのだろうか。 それとも、いい加減見切りをつけられたのだろうか。 ぼんやりと視線を流したところで、積みあがった書類は減ってはくれない。 ただ静かに己を主張するが、そんなものは自分にとってはどうでもいいものでしかない。 けれどその書類ひとつで、多くの人間の命が失われることもある。 先に延ばせば延ばすほどに、助かるかもしれない命は消えていく。 そうすれば、あの子はまた私から遠ざかる。 それが解っていても、今日は何も考えることができない。 「…まだいらしたんですか」 音も立てず扉を開いたティラミス。 呆れたように言うのは、本心なのかフリなのか。 「ぼうっとしてたらね」 いつの間にか日が暮れていた、と笑えば、あからさまに溜息を吐かれる。 「お帰りください、と言ったのは、昼ですよ。 あと数時間もすれば、今日が終わりますよ」 「…もう、そんな時間かい」 長い時間、シンタローのことを考えていた。 ずっと、それだけを考えていた。 「…いいんですか」 「何が?」 解っていて、訊くのは大人の狡さ。 それを悟るティラミスは、再び溜息を吐き出す。 「会いたいのでしょう? 場所は解っているのだから、行けばいいじゃないですか」 「間に合わないよ」 「あなたが、無駄に時間を使ったからでしょう」 「手厳しいね」 珍しく直球的な言葉に、思わず笑みが漏れる。 「…間に合わなくても、いいじゃないですか」 視線を僅かに逸らしながら、ティラミスが言った。 「嫌だよ」 逸らされたままのティラミスの目を見ながら言った。 「…だったら、そんな顔をしないでください」 苦しそうに呟かれたその言葉に、 笑って、どんな?、と言える余裕もなく、ただ苦笑した。 「…待ってると思いますよ?」 「本気で言ってるのかい?」 だとしたら、有り得なさすぎて逆に笑える。 「お前だって知ってるだろ? 去年もその前も、ずっと私は命令してたんだよ。 総帥命令で、あの子を束縛した。 親子だからって理由は、何処にもあの子の中にはなかった。 上司と部下だから、あの子は従っていた」 だから、待っているなんてことなど絶対にない。 いつからか、避けられた。 それは仕方なかったのかもしれない。 自分の親が人殺し集団のトップだなんて、 心優しいあの子が受け止められるはずもないと思っていた。 けれど、それでも傍にいることを選んでくれた。 団に入るとシンタローが決めた時、反対しながらもそれが嬉しかった。 でもそんな曖昧な時間は、コタローの一件で崩壊した。 頼めば文句を言いながらも数ヶ月に一度は帰ってきてくれていたのに、 あれ以来一度も家に帰ってきてはくれない。 言葉も視線も交わすことができるのは、命令という冷たい中でしかなかった。 それも総帥と団員という上下関係があったから、唯一保てた関係。 けれど今は、そんなモノはない。 シンタローは出て行った。 唯一繋がれていた関係は破綻し、 残ったのはとっくに消えてしまった親子関係という残骸だけ。 自嘲の笑みが漏れる。 ティラミスはじっと私を見つめたまま、言葉を紡ぐ。 「シンタロー様のことは、あなたが一番知ってるのでしょう?」 そんなことを言われても、昔みたいに当たり前だと言えない。 私が誰よりも一番あの子のことを解っている、などもう言えない。 距離が開いてしまった。 共有する時間も心も、傍に感じられない。 「…解らないよ」 正直に告げれば変らず無表情の中、痛ましそうな目で見られる。 きっと傍にいる誰よりも、私のことを思ってくれている。 それが解るから甘えた時もあったし、利用する時もあった。 でも今日だけは、そんなことをしたくはなかった。 「…覚えてます? 昨日の賭けに私が勝ったこと」 突然話が変ったことに一瞬反応が遅れたが、すぐさまその言葉の意味を理解する。 昨日何を思ったか突然、ティラミスが私とチョコレートロマンスをカジノに誘った。 三人で行くことは何度かあったが、ティラミスが自分で誘うことなど一度もなかったのに。 賭けに興じてる中、何故かティラミスとポーカーで勝負することになった。 いくらティラミスが普段からポーカーフェイスをしていると言え、 僅かな変化でも見逃さないと思っていたのに意外にも負けてしまった。 大量にあったチップを渡せば、いらない、と言う。 一生遊んで暮らしても余りあるチップに見向きもせず、ただ約束をくれという。 ――願いを一度だけ聞いてくれ、と。 それを思い出し、会話を変えてくれたのだと思った。 シンタローのことなど、何も話してなかったかのように。 「あぁ、願いを聞け、だったかな」 無言で頷くティラミスを見ながら、きっと無理は言わない、と何処かで知っていた。 そして、この無欲な男が何を望むのか興味があった。 「何でも聞くよ」 今まで、一度も願いを言ったことのないティラミス。 賭けに負けたからという理由などなくても、聞いてやりたいと思った。 「今から、シンタロー様に会いに行って下さい」 何を言われたか解らず見つめたその先には、痛ましく見つめてくる目はなかった。 予想外の言葉に言葉を失った私に、それでもティラミスは続ける。 「何でも聞いてくれるんでしょう?」 告げながら儚く笑うから、気づいてしまった。 「…謀ったのか」 昨日のティラミスの行動の不自然さがやっと解る。 「チョコレートロマンスに、少しだけ協力してもらいました。 でないと、私があなたに勝てるわけはないんですよ。 あなたは、私を信じすぎてますね。 …もう、信じてくれなくて結構ですから」 信じすぎるも何も、結局ティラミスは私を陥れることなどできない。 だから―― 「信じるよ。 これからも、私はお前を信じるよ」 「では、願いを聞いてくれますか?」 「…あぁ」 その言葉に小さな笑みをくれ、視線を逸らされる。 逸らされた視線の先には、淡く光る月が。 「…Cry for the moon.」 呟けば、ティラミスが振り返る。 無言で視線を絡ませ、互いに笑った。 漏れる笑みは、どちらも自嘲だった。 月が欲しいと子どもが泣く。 その姿は見えているのに、手を伸ばしても届かない。 それが悔しくて哀しくて、子どもは泣く。 では、大人は? 泣けない大人は? 欲しいとすら、もう言えない。 けれど、その気持ちは隠せない。 ただ黙って、月を望むだけ。 けれど、大人は様々だ。 黙って望む月を見上げるだけの者もいれば、 望む月が手に入ることがあると知っている者もいる。 そしてそれは自分でなく、他人の月である場合もあると知っている。 だから、時に退く。 自分の月でないのなら、本来の持ち主に返すようにと。 自分は手に入れられなくとも、誰かが月を手に入れられるようにと。 子どものように、感情のまま動けない。 それが、らしくもなく哀しいと思った。 「…願いを聞いてくれるのでしょう? だったら、早く聞いてください」 滅多に見せられることのないキレイな笑みが向けられる。 その笑顔すら、哀しいと思った。 けれどそんなことを告げられるはずもなく、笑って、ありがとう、と言った。 ティラミスの欲しがる月は、私。 けれど私が欲しい月は、シンタロー。 シンタローは、どんな月を欲しがるのだろうか。 そして欲しい月を見つけた時、どうするのだろう。 私のように望むだけで終わるのでもなく、 ティラミスのように、自分は退いて誰かに渡すのでもなく、 子どものように手を伸ばし泣いて欲しいと思った。 感情を殺さないで、感情のままに泣いて欲しいと。 そうしてくれれば、諦められると思った。 諦められないと知りながらも、そう思わずにはいられなかった。
05.05.26〜05.28 ← Back