目の前の赤い服に身を包んだ兄さんは、
兄さんでしか有り得ないのに、昨日とは別人だった。







Bavarian cream.







父さんが死んだのが、数日前。

大好きだった大きな腕に、僕たち兄弟みんなを抱きしながら、
けれど、最期にはみんなに抱きとめられるように、父さんは死んだ。

何が起こったのか解らなくて、
不安に泣き叫びながらも動かなくなった父さんを揺する弟たち。
呆然と立ち尽くしながらも、縋るように父さんの服を掴んで離さない兄さん。

そんな光景を同じく呆然としながらも、少しだけ冷静に見ていた僕。




それから何もかもが慌しく過ぎた。
その間に、何が起きていたのかよく解らない。

気が付けば、兄さんが跡を継ぐことが決まっていた。
そして昨日葬儀を終え、今日から兄さんは総帥となる。

昨日の夜、兄さんはひとりで父さんの部屋だった総帥室に閉じこもっていた。
きっと泣いているのだろうと、僕は思っていた。

けれどそれは違ったのだと、今思い知る。


兄さんの目に、泣き腫らした様子は伺えない。
それどころか、あれだけ雄弁だった表情すら伺えない。







「…兄さん」

呟いた声が、静かな部屋に虚しく響く。

「どうした?」

表情が生み出され、優しく向けられる声と笑顔。
でも、昨日までと違う声と笑顔。

その瞬間、どうしようもない後悔が襲った。

「どうして、僕は弟なんでしょう。
 どうして、兄さんより後に生まれたんでしょう」

後悔したところでどうにもならないことだと解っていても、
それでも後悔せずにはいられない。

悔しくて、哀しかった。

そんな僕の胸のうちを察したのか、兄さんが笑った。
昨日までのよく知った柔らかな笑みで。

けれど続いた言葉に、昨日までの兄さんとは違うと思い知される。



「私は、ルーザーが弟でよかったよ」

『私』、と兄さんは言った。
昨日まで、『僕』と言っていたのに。

哀しかった。

兄さんが、変ってしまったことが。
変らずにはいられなかったことが。

そして何もできない自分が、悔しかった。


無力な自分が情けなく、俯いた。
どんな時でも、そんなことなどしなかったのに。



「ルーザーは、総帥になりたかったの?
 でも、譲らないよ。
 私だって、なりたかったんだから」

俯いたままの僕を気遣って、兄さんは悪戯っ子みたいに告げてきた。

けれど、僕は顔を上げることができない。
首を横に振ることしかできない。

だって、そんなこと嘘だと知っているから。


とても優しい人だと知っている。
家族だとか一族だとかそんなの関係なく、誰かが傷つけばそれ以上に自分が傷つく。

そんな兄さんが、血にまみれた総帥になりたいはずがなかった。
父さんに憧れてたということは、
総帥という地位と権力とそれに付随するしがらみに憧れていたことには繋がらない。

そんなの、兄さんが一番解っている。


けれど、それでも総帥の地位に就くのは、僕たち兄弟のため。
そんな血にまみれた地位に、就くのは自分でいいと思っている。
それ以上に、そんな地位に僕たちを就かせたくないのだ。

自己の判断で望むならともかく、
その判断ができる状態ではない幼さの中で、
自分がその地位を拒むことで、僕を含めた弟たちに押し付けたくないのだ。

兄さん、どうしてあなたは――


顔を上げて、兄さんを見据える。
変らず柔らかな笑みで受け止められる。

けれど、その笑顔は見ていて辛い。



ただ、兄弟の誰よりも早く生まれたというだけ。
それだけで、その小さな背中に負担全部を背負う理由にはならない。

変れるものなら、今すぐにでも変りたい。




「兄さん、僕が総帥になります。
 僕は、兄さんとは違うから。
 父さんが亡くなった今、僕はあなたと弟たちだけがすべてなんです。
 だから一族や団員が、どれだけ傷つこうが死のうがどうでもいいんです。
 兄さんと違って、僕は一切傷つかない。
 だから、僕が継ぎます」

その言葉に、兄さんは驚くこともなく笑った。
少しだけ嬉しそうに。
けれど、困ったように。

それでも、僕は了承してくれたんだと思った。
それなのに、兄さんは思いもよらない言葉を告げてきた。


「僕が、傷つくよ」

一瞬、何を言われたのか解らなかった。

「…兄さん?」

「ありがとう。ルーザーの言葉は嬉しいよ。
 でもルーザーが総帥を継いだら、僕が傷つくよ」

今は、困ったような笑みだけを浮かべて笑う。
そんな兄さんが何を言っているのか、僕は解らない。

「…兄さん、何を言っているんです?」

「誰かを傷つけることをルーザーが選ぶことが、僕は哀しい。
 本当に総帥になりたいんじゃないだろ?
 ルーザーは優しいから、僕の代わりになろうとしてる。
 そんなことをする必要はないんだよ。
 そんな理由では、ダメだよ」

「では、本当に総帥になりたい、と言ったら?」

「…それでも、やっぱり譲れないよ。
 ここまで、来てはいけない。
 団に志願するというのならそれは止めることはできないけれど、この地位だけは譲れない。
 僕の我侭でしかないけれど、やっぱり誰かを傷つけてほしくない」

困った笑みが、哀しそうなものに変った。
涙など何年も流していないけれど、僕は泣きたかった。



それでは僕は、兄さんを助けることが何もできないじゃないですか、
と泣いて叫びたかった。

けれどもう何ひとつとして、兄さんを困らせることをしたくない僕は、
その衝動を殺すために俯いて歯を食いしばった。


情けなくも震える肩に兄さんの手が触れ、抱きしめられる。
見上げれば、
薄っすらと涙の滲む目と見慣れた大好きな笑顔が浮かんでいる。




「ごめんね、ルーザー。
 でも僕のことを想ってくれて、本当にありがとう」

たったそれだけで、衝動が静かに消えた。
やりきれなさがは残るものの、冷静さが蘇る。

そして、気づく。


兄さんは、『僕』と言っていた。

先ほどまでの言葉が、総帥になろうとしている兄さんの言葉ではなく、
昨日までのよく知った飾ることも隠すこともない嘘偽りのない兄さんの言葉だと思い知る。


そして、悟る。

どうしても、兄さんの考えは変ることがないと。
僕が、諦めるしかないと。




「僕が何を言っても、無駄なんですね」

見上げた兄さんの目に、情けない顔の僕が映っていた。

「うん、ごめんね」

真摯な目で、見つめ返される。

「僕は、もう何も言いません。
 総帥になることは諦めます。
 けれど、僕は団に入りますよ。
 僕の意思で。
 だから、止めないでくださいね」

真摯な綺麗な目が、一瞬怯んだ。
逃げるように、一度目が閉じられる。
けれど次の瞬間、諦めたような笑顔とともに開けられる。

「僕が言ったことだから、止めれないね」

その言葉に、ふたり静かに笑った。
おかしくなどなかったけど、笑った。






きっと、暫く笑えない。

兄さんは今僕の前で外してくれた仮面を、再び付ける。
それがしっかりと馴染むまで、笑うことを拒むだろう。
笑ったりすれば、仮面が外れてしまうから。

そんな仮面など付けて欲しくないけれど、
すべてを決めてしまった兄さんに、僕の言葉は届かない。
届いたところで、今は兄さんの邪魔になる。


だから、兄さんは仮面を付ける。
心優しい兄さんは、仮面がなければ無理だから。

だから、僕はもう何もしない。
兄さんが再び、笑える日まで僕は我慢する。


だから、再び兄さんが仮面をつけるまで、
僅かな間でいいから、今だけふたり笑わせて。






『Bavarian cream.』=ババロア。05.02.26 Back