「アンタには、何ひとつ大切なモノはないのよ」
女は、顔を歪ませ言った。
それに、俺はただ笑って答えた。
Het gevoel van de schipbreuk.
「昔、アンタの女が当てつけに自殺したんだって?」
何が原因か忘れてしまった口論の果てに、サスケが口を歪ませ訊いてきた。
一瞬何を言われたか解らなくてサスケを見やると、サスケはさらに皮肉を滲ませ言った。
「紅先生に聞いた」
あぁ、なるほどね。
紅に聞いたのね。
何を今更、あの女は言ったんだか。
「何?
アンタ答えられないの?
流石に、その女に悪いとでも思ってるワケ?」
クスクス笑うサスケ。
その顔を見て、口論もどうでもいいくらいに白けた。
「サスケさー、紅に何を聞いたの?」
「アンタのせいで女が自殺したってこと」
事実だろ?、とサスケがまた笑う。
「事実だけど、ちょっと違うよ」
そう言うと、サスケは僅かに眉間に皺を寄せた。
「女って言っても、別に付き合ってたわけじゃないし。
それに俺、その女が死んだ時別の女といたよ。
紅がさー、いきなり家に来て、俺のこと引っぱたいたんだ。
いきなりだよ、いきなり。
だから一緒にいた女、
怖がって逃げるように帰っちゃったんだよねー、結構いい女だったのにな。
そういや、あの女今何してるんだろ。
…あー、じゃなくて。
まぁ、その自殺した女ってのが紅の友達だったんだけどね。
だから、紅が俺のこと引っぱたきに来なかったら、俺、忘れてると思うよ。
それくらい、別にどうでもいいことだったんだし。
だからさー、俺を傷つけるために言ったんだろうけど、
その言葉、意味、ないよ」
ニッコリ笑ってサスケを覗き込むと、馬鹿みたいに目を見開いて俺を凝視している。
真っ青な顔をして。
そんなに怯えなくてもいいのにね。
そんなの見たら、もっと追い込んで見たくなるってのが、性じゃない?
「サスケ、顔色悪いよ?
どうしたの、怖くなっちゃった?
そりゃ、怖いよねー。
人ひとり自殺させても忘れたって笑って言う奴に、愛されてんだから。
ねぇ、サスケ?」
顔色が目に見えて悪くなるサスケに、触れようと手を伸ばす。
けれど、その手が届く前にサスケは踵を返し出て行ってしまった。
外は雨が降っているというのに、何処に行く気なのか。
ま、行ったところで帰ってくるのはここしかないから別にいいのだけれど。
走った。
カカシの家を飛び出して、走った。
行く当ては、ひとつ。
乱れる息を整えて、赤提灯を睨みつける。
きっと、ここにいるはず。
ガラリと引き戸を開ければ、カウンターに目当ての人が座っている。
「先生…」
呼びかければ、黒髪の綺麗な女が振り返る。
「ちょっと、アンタどうしたの?
びしょ濡れじゃない。
オヤジさん、タオルちょうだい、タオル!」
女が慌てている傍らで、ヒゲ面がひょっこりと顔を出して笑った。
「水も滴るいい男、だな」
「アスマ、何馬鹿なこと言ってるのよ。
ほら、これで拭いてやってよ」
タオルを渡されたヒゲ面が手招きするから傍に行けば、ガシガシと容赦なく髪を拭かれる。
温かい、と思った。
このふたりは温かい、と思った。
「で、何があったの?」
一通り水気を拭われた後に、熱いお茶を渡しながら女が訊いてきた。
「訊きたいことがあって…」
呟くように言えば、女は自分越しにヒゲ面を見やった。
「あー、俺今日は帰るわ」
「いや、アンタも…居て欲しい」
「それじゃ、遠慮なく。
オヤジ、ビール追加」
その声に女は溜息ひとつ吐いて、また訊いてくる。
「で、何があったの?」
すぐにでも訊きたいと思うのに、一瞬躊躇ってしまった。
けれど、それでも訊かずにはいられなくて、貰ったお茶で喉を湿らす。
「カカシの女…、
いや、カカシのせいで自殺した女の話聞かせてほしい」
女は僅かに目を見開いた後、ギリっと真っ赤な唇を噛んだ。
ヒゲ面は、ただ溜息を吐いただけ。
「もう何年も前のことよ」
女は溜息混じりに口を開く。
ヒゲ面は何も言わず、酒に口をつける。
俺は、女が語りだす真っ赤な唇を見つめる。
「あたしの友達だった。
カカシのこと好きだったのか知らないけど、いつの間にか楽しそうにカカシのこと話してた。
でも、それから1ヶ月も経たないうちに、暗く思いつめた顔をし始めたの。
理由を訊こうにも任務で暫く里を出なくちゃいけなくて、話を聞くの後回しにしたんだけど、
――それが、間違いだった。
今となっては、そんなの言い訳でしかないと解ってるんだけどね」
女は笑う。
苦笑とも自嘲ともとれる笑みで、静かに笑う。
「任務から帰ってすぐに彼女の家に行ったら、死んでた。
手首掻っ切って、死んでた」
馬鹿よね、と女がまた笑う。
「その足でカカシの家に行ったら、あの馬鹿もう他の女連れ込んでた。
もうどうしようもない怒りが湧いてきて、殴ったわ。
避けられるって思ってたけど、アイツ避けなかった。
理由解ってて殴られたのかって思ったけど、違った。
アイツ、きょとんって顔してんの。
何で自分が殴られたか解ってないの。
だから、言ってやった。
アンタのせいであたしの友達が自殺した、って。
そしたら、アイツどうしたと思う?」
女が静かに訊いてくる。
その目に怒りと哀れみの色が映る。
それは誰に対しての哀れみなのか。
問いかけの答えが解らなくて、首を振る。
女は手を強く握り締めた。
「『あ、そう』って言ったのよ。
それも、笑って」
それだけを言って、女は酒を煽った。
「その瞬間に怒りは消えてしまって、ただ哀しくなった。
彼女が死んだことは勿論のことだけど、それより、アイツが可哀想な人間に思えてきて。
でも、アイツを素直に哀れむことはできなかった。
大切な友達が、アイツのせいで死んだばっかりだったからね。
でも、何か言ってやらないと気がすまなかったから、言ったの。
アンタには何ひとつ大切なモノはないのよ、って」
そこまで話して、女はゆっくりと息を吐いた。
それから、俺を見て笑う。
「そしたらアイツ、また笑ったの。
あたしの言葉を何とも思わず、笑ったのよ。
――怖かった。
カカシという人間が、怖かった。
…それから自分がどうしたのか覚えてないわ。
気がついたらいつもの日常に戻ってた。
カカシと顔合わせても、普通に話してる」
女は、また酒を煽った。
そして、泣き出しそうに笑った。
「アイツは、人として欠如してるところがあるってこと知ってた。
でも、そこまでとは知らなかった。
そこまで――アイツは壊れてた」
何も、何も言えなくて、ただ女を見ていた。
女は静かに笑った。
「ごめんね」
「…何が?」
問えば、もう一度女は謝った。
「ごめん」
謝られても答えられなくて女の潤む目を見ていたら、ふいに横から手が頭に置かれた。
振り返れば、ヒゲ面がこちらには目をくれず、ぽんぽんと頭を叩く。
何度も、何度も優しく叩かれるそれは、
慰めているようでもあり、どこか謝罪されている気になる。
誰もが気づいている、カカシの人としての欠陥性。
誰もが気づいていると言うのに、どうにもできないそれ。
どうにかしたいと思っているのに、術がない。
彼の闇は、それほどまでに深い。
やりきれない、どうしようもない沈黙がその場を覆う。
「ごめん」
女がまた言った。
視線を向けると、女は真っ直ぐに俺を見ていた。
「アンタに任せて、ごめん」
その言葉に答えられなくて、ただ首を振る。
女はそれでも、言葉を続ける。
「あの子の――死んだ友達のこと言ったの、ごめん。
でも、どうしようもなかったから…」
女は目を閉じ、口を噤む。
閉じた目からぽたりと落ちる透明なひと雫。
きっとこの女にとって、友達よりもカカシのほうが大事だったのだろう。
いや、大事というよりも哀れに思ったのかもしれない。
なんとなく、そう思った。
涙をひと雫だけ落として、女は俺を見据える。
そして、また同じ言葉を繰り返す。
「ごめん」
そして俺は、同じ行為を繰り返す。
ふるふると首を振るだけ。
頭に置かれていたヒゲ面の手が、ぐしゃりと一度髪を掴んで静かに離れた。
その行為すら、謝罪されているように思った。
「…俺、帰ります」
女も男も、引き止めない。
視線も寄越さない。
女も男も、手に持ったグラスに沈鬱な表情を向けている。
「…」
何も言えない。
何も、考えられない。
席を立ち扉に向かおうとすれば、カウンター越しに傘を持った手が伸ばされた。
見上げると店主が、持っていけ、と言った。
それに首を振って答える。
ふるふる、ふるふる首を振る。
店主は眉を顰めたが、何も言わずまた手を引っ込め料理を作り始める。
あぁ、自分は首を振ってばかりだ。
そんな思いで外に出れば、笑うカカシがいた。
「…んで」
目を見開き、震える声でサスケが訊いてくる。
「雨降ってるし、お迎え」
笑って答えると、サスケは後ずさる。
「…な…んで」
それでも、まだ訊いてくる。
だから、笑って答える。
「お前が帰ってくる場所なんて俺の処しかないから、別に待っててもよかったけど、
ちょっとお節介なふたりに言いたいこともあったし、ついでに迎えに来たんだけど?」
だからちょっと待っててね、そう笑って言うと、サスケがそれを止める。
「いいから!
ふたりは関係ないから!
もう、帰るから!
もう、いいから!」
支離滅裂な言葉を、必死になってサスケが言う。
その姿を何も言わずに見ていたら、サスケは懇願するように呟いた。
「もう、いいから。
…だから、帰ろう」
俺がふたりに何かするとでも思っているらしい。
多少の小言は言うつもりだったけど、何もするつもりはないというのに、この怯えようは何だろう。
あまりに必死で笑えてしまう。
それに気配を消しているわけでもないうえに、これだけ騒げば、
あのふたりも俺がいることにとっくに気づいている。
そのことに気づかないサスケが可笑しい。
「そう?
それなら別にいいけどね。
帰ろうか?」
サスケは、安心したように頷いた。
「あ、迎えに来ておいてなんだけど、傘コレしかないから」
そう言って、俺が差している真っ赤な傘を指せば、サスケは何も言わず頷いた。
「帰ろっか」
サスケは、また頷く。
今日のサスケは頷いてばかり。
おいで、と笑って言えば、泣き出しそうな顔で左腕にしがみついてきた。
寄り添う小さな肩を、雨に濡れぬよう抱き寄せる。
サスケは、腕に頭を擦り付けるようにしがみついている。
そのまま無言の時が過ぎる。
ただ、雨音だけが胸に優しく染み入る。
それは本当に酷く優しくて、崩れてしまう。
――崩れてしまう。
「ねぇ、サスケ。
怖い?」
何を血迷ったか、自分はそうサスケに訊いていた。
酷く穏やかな声で、訊いていた。
サスケは腕にしがみついたまま、首を横に振る。
「そう。
…ごめんね」
サスケはまた首を振り、いっそう強くしがみついてきた。
その小さな身体を、抱きしめた。
ワケも解らず、哀しかった。
なぁ、紅。
大切なモノ、できたよ。
でも、どう扱っていいか解らない。
大切なモノは――怖いね。
2004.04.15〜04.28
『Het gevoel van de schipbreuk』(独)=残骸感情
残骸感情→欠陥人間カカシに残ってた感情の欠片。
大切なモノのはずなのに、
カカシ自身にはよく解らない持て余してしまう感情でしかない、という感じで。
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