涙は流れなかった。
けれど、大声で泣いた気がした。
The same smiling face.
大きく深呼吸をすれば、身体の力がゆっくりとぬけていく。
もう、大丈夫。
もう、笑える。
「…少尉、ありがとう」
少しぎこちない気がしたけれど、笑えた。
少尉は大きな手を俺の頭に置いて、笑った。
「何もしてねぇよ」
「…うん。でも、ありがとう」
「バーカ」
互いに目を合わせて、クスクスと笑いあう。
もし兄がいたのなら、きっとこんな感じなのだろう。
安心させてくれる存在。
アルにとって自分は、そんな存在になれているだろうか。
ふと考えたけれど、否定の言葉しか浮かばない。
きっと、今もアルに心配をかけている。
ダメな兄…。
不甲斐なくて、口元が歪む。
「…大将、そんな顔で笑うなよ」
「え?」
見上げれば、真剣な眼差しがあった。
「今、大佐みたいな顔で笑ってる」
「大佐?」
頷く少尉。
けれど、理解できない自分。
彼の笑い方?
彼は、どんな顔で笑っていた?
思い出すのは、人に真意を悟らせない読めぬ笑み。
けれど、それは自分には当てはまらないように思える。
「少尉、それさっきも言ってたよな。
どういう意味?」
「笑って誤魔化そうとしてる笑顔」
「…俺、そんな顔してる?」
心臓が、ドクンと跳ねた。
少尉は、ゆっくりと頷いた。
それから、視線を逸らし、真っ直ぐと正面を向く。
「あの人はさー、いつも笑ってるだろ」
言われて思い返せば、彼の笑ってる顔がいくつか思い浮かんだ。
皮肉げに笑っていたり、苦笑だったり、有無を言わさぬ笑顔だったり…。
「…あぁ、笑ってるな」
「どうしてか知ってるか?」
理由なんて、考えるまでもなく。
「真意を悟らせないためだろ」
言い切れば、少尉は苦笑した。
「簡潔に言えば、まぁそうなんだけど…」
「違うのか?」
「あー、まぁ正解だな」
「少尉、意味解んないんだけど」
「…だな」
少尉はため息を吐き、煙草に火をつけた。
紫煙が暗闇の中、静かに揺れる。
「俺はあの人と結構な時間を過ごしてるわけだろ」
少尉が何を言いたいのか解らなかったけれど、頷いて先を促す。
「で、あの人の完璧な笑顔を見てたわけよ。
飽きもせず、愛想笑い浮かべてんなー、とか。
でも、よくよく見てると、いろんな笑い方してるんだよな」
「…誰でも、そうだろ?」
誰だって、ひとつの笑い方だけするヤツなんていない。
楽しくて笑う時もあれば、苦笑の時もあるし、誤魔化す時に笑う場合もある。
その言葉に、また少尉は苦笑した。
「まぁ、聞けって」
くしゃりと髪を掴んで、もう一度笑った。
それから、ゆっくりと煙草の煙を吐き出しながら、視線をもとに戻した。
「その場その場において、
あの人は完璧なまでに笑顔を使い分けているけど、それはひとりを除いてなんだよな」
「何それ?」
「だから、たったひとりには同じ顔で笑うんだよ」
言われて思い出したのは、以前街で彼と見知らぬ女性を見かけた時のこと。
彼は、見てるこっちの気分が悪くなるような甘い顔をしていた。
少尉が言ってる笑顔とは、あの甘い笑顔なんだろうか。
胸に鈍い痛みが走りながらも、言葉は漏れ出た。
「少尉、それ知ってる」
「そりゃ、そうだろう」
静かに、少尉は言った。
「でも、俺あんな顔して笑ってないよ」
「あんな顔してるよ」
静かに、静かに、少尉は言い放つ。
けれど、どう考えてもそれは絶対に違っていて。
「俺、あんな甘ったるい顔して笑ってない」
そんな顔で笑っている筈がない。
今の自分は、最悪の状態なのだから。
少尉が何も言わないから、もう一度、笑ってない、と呟いた。
その声は、馬鹿みたいに力なくて、何度目か解らない胸の痛みを呼んだ。
「…大将、何を言ってるんだ?」
暫くして、漸く少尉が口を開いた。
それは、どうにも解らない、といった風だった。
「だから、俺はあんな甘ったるい顔してないって言ったんだよ」
俯いたまま呟けば、少尉が言葉に詰まるが感じ取れた。
「…いや、だから、何を言ってるんだ?」
何度も言わせないで欲しいのに。
思い出しただけでも胸に痛みが走るから、何度も言葉にしたくはないのに。
けれど、少尉はしつこく訊いてくる。
恩も借りもある手前、無碍にすることもできず、痛む胸を無視して口を開いた。
「少尉の言う笑顔って、甘ったるい笑顔だろ?」
「ち…」
言葉を遮って、何かを言い出そうとする少尉を無視して続ける。
今勢いにのせて話さなければ、二度とこのことを口にしたくないから。
「俺、前見たんだ。
街で大佐と女の人が一緒にいるの。
その時、大佐、甘ったるい顔で笑ってた。
その人にだけ、大佐はあの顔で笑うんだろ?
俺、今あんな顔で笑ってないよ」
言い切れば胸の痛みは最高潮まで達していて、紛らすためにまた両手を強く握り込む。
そして、それを悟らせないように、笑った。
少尉が、怒ったように眉を寄せた。
「…っだから」
少尉の言葉は、そこで途切れた。
そして、目の前に広がる青。
何?
何で、少尉が抱きしめているんだ?
身体を離そうにも、少尉が強く抱きしめて離さない。
目の前に広がる青。
それは、数十分前に見た青と同じ。
ただ、匂いが違う。
彼からは、コロンの香りがした。
けれど、少尉からは煙草の香りがする。
彼との違いを見つけて、また笑う。
どうして、こんな時にまで彼のことを考えるのか。
もう、嫌なのに…
笑った気配を感じとったのか、少尉が呟いた。
「…だから、それがあの人と同じ笑い方だって言ってんだよ」
「…だから、俺は、あんな甘ったるい顔して笑ってないよ」
声はくぐもって、少尉の服へと消えた。
けれど、少尉には聞こえたようで、
ゆっくりと抱き込む腕の力を緩めながら視線を絡ませ、してるよ、と笑った。
その笑顔に何も言えなくなって、困ったように少尉を見つめた。
少尉も困ったように笑って、ごめん、と呟いた。
それから短くなった煙草を携帯灰皿に押し付けて、また新しい煙草を手にした。
04.06.03〜06.11
『Please don't smile with such expression.』=そんな顔で笑わないで。
から改題↓(04.07.02)
『The same smiling face.』=同じ笑顔。
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