ヒューズ、電話が鳴らない。
お前の声が、もう聞けない。
Calling
書類を進める手が止まった。
時計を見れば夜の10時を過ぎていて、あたりは静けさに包まれていた。
音が、何も聞こえない。
時計の音すらも、耳は捉えない。
ぼんやりと視線を巡らせれば、机の隅に置かれた黒い電話に目が止まる。
電話はただの置物のようにそこにあるだけで、
音を発することも無ければ、伝えてくることもない。
耳に残るは、彼の声。
勤務中だというのに、妻子の自慢を話す声。
いつも怒りを感じながらも、心のどこかで笑っていた。
羨んでいた。
誰かを愛せる彼を。
彼が最期に伝えたかったことは何なのか。
自分はそれを聞くことはなかった。
もう、聞けない。
ヒューズ、電話が鳴らない。
お前の声が、もう聞けない。
いっそ、壊してしまおうか。
そんな想いがよぎる。
そして、その想いは深く、止める気すら起こらない。
手が、伸びる。
机の上から薙ぎ払いたかった。
視界に映していたくなかった。
それなのに電話に触れる間際、それはけたたましい音をたてて自己を主張した。
その音に僅かに正気が戻る。
呼吸を落ち着かせ、受話器を取る。
「はい、マスタングだが」
「あ、大佐?」
聞こえてきた声は、久しぶりに聞いたよく知っている子どもの声。
「鋼の?」
「そう、俺」
子どもは明るい声で話す。
過去の悲惨な出来事を思い出さすこともせず。
「どうしたんだい。こんな時間に」
「あー…、その…」
問えば、先ほどまでの勢いはなくなり、急に歯切れが悪くなる。
「鋼の?」
「…明日」
「ん?明日?」
口ごもる声は小さく聞き取りにくいが、焦らすことなく訊ねる。
「明日そっち行くから、茶菓子用意して待ってろ」
一息で言い切って子どもは電話を切った。
あまりの勢いに受話器を持ったまま自分は固まり、そして噴出した。
くすくすと笑みが漏れ出る。
重い気分が一掃された。
可愛い、可愛い、大切な子ども。
あぁ、自分にはまだあの子どもがいた。
彼を想う気持ちはまだ愛とは呼べないし、呼ぶ日が来るかどうかも解らないけれど、
それでも子どもに抱く想いは、心温まるものであることはまぎれもない事実。
ツーツーとしか伝えてこなくなった受話器を静かに置き、それを見つめた。
ヒューズ、電話は鳴った。
お前の声はもう聞けないけれど、あの子どもの声はまだ聞ける。
だからまだ、私は大丈夫みたいだ。
04.05.26
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